北西から堀越しに望むロンドン塔
イギリス王室歴代の居城の一つも、血塗られた監獄の歴史のイメージが
正式名称
女王陛下の宮殿にして要塞(Her Majesty's Royal Palace and Fortress)
所在地
London EC3N 4AB
訪城日
1994/05/08
2014/07/26
歴史等
ロンドン塔のあるタワーヒルには、古代ローマの時代に砦(軍事的要塞)が置かれていたという。砦を築いたのは、クラシシアヌスであったと推定され、この総督のもとで、ロンドンの都市整備、即ちローマ化が行なわれたのは紀元80年から100年頃で、紀元120年頃にはすでに古代の城砦が築かれていた。
ローマ時代のロンドンの繁栄に翳りが見えだしたのは5世紀初頭で、デンマークから来たアングロ人、ドイツから来たサクソン人などがブリテン島に侵入した。彼らは、ローマ人に較べて文化度も低かったので、都市に住むよりも地方に住居を定めたので、6世紀頃にはロンドンの居住者は極めて少数となり、すっかり荒廃した。
1066年、アングロサクソン最後の王エドワード証聖王(懺悔王)が跡継ぎを残さず死ぬと、幾人かの王位継承権者が王冠を争うことになり、エドワードの義兄弟のハロルド・ゴッドウィンソンが直ちに即位したが、遠戚の血族にあたるノルマンディー公ウィリアムは、自分も王位を約束されていたと主張し、イングランドに侵攻し、ヘースティングの戦いでハロルド王のイングランド軍を破った。「ロンドンを支配する者がイングランドを支配する」と考えていたウィリアムは、その後、ロンドン包囲網を張った。この作戦が功を奏し、ウィリアムはほとんど戦わずしてロンドンを手に入れた。
イングランドを征服したノルマンディー公ウィリアムは、1066年12月25日ウェストミンスター寺院でイングランド王ウィリアム1世として戴冠した。
戴冠式後、王自身はエセックスのバーキングに退いたが、自治組織のあるロンドンで王権を誇示し、ロンドン市民を完全に服従させるため、また征服王として外敵から身を守るために、市内に幾つかの城を築いた。これらの一つが、ローマ時代の市壁の南東に築いた現在のロンドン塔のもとの城である。この初期の要塞は、1078年に石造りの強固な城塞・ホワイト・タワーに取って代わられた。そして、そのあと100年以上の間は、ほとんど手が加えられなかった。
1216年に新しく王位についたヘンリー3世は本格的な改修をした。
千年以上を越える年月を重ねたローマ時代の城壁は、さすがに傷みが目立ち、城の外観上からも好ましくなく、改築はその城壁を取り壊すことから始められた。それにより「塔(ホワイト・タワー)」の面積は四方に拡げられ、これまでの3倍近くになった。
そして、周囲を城壁で囲み、城壁にはウェイクフィールド、ソルト、ブロード・アロー、コンスタブル、マーティン、ブリック、ボウヤー、フリント、デヴェルーの9ヶ所の塔が設けられ、大規模な城門口を建て、さらには城壁の外周に濠が造られ、そこにテムズ川の水が引き込まれた。
ヘンリー3世の跡を継いだエドワード1世は、塔をさらに拡大し、1275年から10年がかりで西側中央に煉瓦造りのビーチャム・タワーを完成し、さらにはライオン・タワー、ミドル・タワー、バイワード・タワーからなる西側入口を固めて、西側の防備を一層堅固なものにした。そして、テムズ川を埋め立てて水際を後退させてウォーター・レーンを設けて新しい外側城壁で囲まれた外郭を築き、その外周に本格的な濠を造った。
その後、14世紀には埠頭が建設され、動物園や造幣局が建てられるなど、歴代の君主により増改築され、ホワイトタワーを中心に据えた城塞は、いつしか「ロンドン搭」と総称されるようになり、国王が居住する宮殿の一つとして1625年まで使われた。
しかし、歴史上はむしろ宗教上の異端者の収監、王に異を唱えた反逆者の幽閉や処刑が行なわれた監獄として使われた歴史の方が長く、暗いイメージが定着してしまった。
中でも、テューダー朝時代(1485年~1603年)には、、ロンドン塔は王宮であったと同時に牢獄の役割が強まった。ヘンリ8世治世では、かつての王の教育係を務め、大法官のトマス・モアやロチェスター大聖堂の司教フィッシャ、さらには2番目の王妃「アン・ブーリン」、ヘンリー8世の5番目の王妃「キャサリン・ハワード」が処刑された。そして、メアリー1世の時代にはヘンリー7世の曾孫で9日間で廃位となった「ジェーン・グレイ」、またエリザベス1世の時代には寵臣「エセックス伯ロバート・デヴルー」などが処刑されたことは有名である。
(ロンドン塔の発展)
『「現地購入誌」、「ロンドン塔・出口保夫著(中公新書刊)」、「テューダー朝の歴史・水井万里子著(河出書房出版刊)」、「ウィキペディア(Wikipedia)」、「ワールドガイドロンドン’04~’06(JTB刊)」、「地球の歩き方・ロンドン(ダイヤモンド社刊)」他参照』
現況・登城記・感想等
ロンドン塔を見るのは、ほぼ20年ぶりです。とは言っても、前回は外観しか見ていないので、城内へ入るのは初めてです。
ロンドン塔というと、王妃や貴族をはじめ多くの人々が次々と処刑された忌まわしい牢獄のイメージだけがありました。
確かに、その歴史は拭えませんが、現在見るロンドン塔は、「ヨーロッパの城」そのもので、まさに「The Castle」です。
登城前には、ここまで規模が大きいとは想像だにしていませんでした。
日本の城の天守閣にあたる「ホワイト・タワー」をはじめとする多くの建物は勿論、城門、塔などの建築物、さらには城の周囲を囲む強固な城壁や大規模な濠、どれをとっても見応え満点でした。
また、建物内や塔内などの多くが公開されており、中でも「ウォータールー兵舎」に収められた「クラウン・ジュエル」や「ホワイト・タワー」に展示された武具などは必見です。
兎に角、見どころが多過ぎて、3時間半ほどかけて廻ったのですが、それでも見落としがいっぱいです(;>_<;)。ロンドン塔には、タワーと名がつくものだけでも17ヶ所もあり、夏目漱石がその著「倫敦塔」の中でいうように、ロンドン塔の見学は1回だけではとても無理なようです。
登城前には、22ポンド(当時4千円強)の入城料金は、あまりにも高過ぎると思いましたが、登城後にはすっかり納得しました(*^_^*)。
(2014/07/26登城して)
ギャラリー
ロンドン塔ガイドマップ(現地購入誌より) ~画面をクリックにて拡大~
1.ビーチャム・タワー、2.ベル・タワーと南の内側幕壁、3ブラッディー・タワー、4.ボウヤー・タワー、5.ブラス・マウント、6.ブリック・タワー、7.ブロード・アロータワー、8.バイワード・タワー、9.ケースメート、10.セント・ピーター・アドヴィンキュラ礼拝堂、11.コールドハーバー・ゲート、12.コンスタブル・タワー、13.クレイドル・タワー、14.デヴェルー・タワー、15.デヴリン・タワー、16.フリント・タワー、17.フュージリア連隊博物館、18.ホスピタル・ブロック、19ヘンリー3世の水門、20.ランタン・タワー、21.レッゲス・マウント、22.ローマ時代の市城壁位置、23.ライオン・タワーの跳ね橋の落とし穴、24.マーティン・タワー、25.ミドル・タワー、26.ミント・ストリート、27.新武器庫、28.クイーンズ・ハウス、29.ソルト・タワー、30.処刑場跡とメモリアル、31.グレート・ホール跡、32.セント・トマス・タワー、33.タワー・グリーン、34.タワー・ヒル・メモリアル、35.トレーターズ・ゲート、36.ウェイクフィールド・タワー、37.内奥郭の壁、38.ワードローブ・タワー、39.ウォーター・レーン、40.ウォータールー兵舎、41.ウェル・タワー、42.埠頭、43.ホワイト・タワー
タワー・ブリッジから望むロンドン塔
ロンドン塔の南側を流れるテムズ川に架かるタワー・ブリッジから望むロンドン塔です。背後には、ロンドンの新たなランドマークタワー「30セント・メアリー・アクス」が見えます。
ロンドン塔は、写真左からセント・トーマス・タワー(その下の門がトレイターズ・ゲート)、ウェイクフィールド・タワー、ヘンリー3世の水門で、往時はそのすぐ前までテムズ川の水が満ちていたそうです。また、イギリスの国旗(ユニオンジャック)がはためいているのが、日本の城の天守閣にあたるホワイト・タワーです。
北東から望むロンドン塔
正面に張り出している如何にも強固な円柱形の塔は「ブラス・マウント」で、1280年以降のエドワード1世による外側幕壁(城壁)強化工事の一部として増強されたものです。
その向こうに見える茶色い煉瓦造りの塔は「マーティン・タワー」で、さらにその左奥に見える何本かの尖塔が見えるのが「ホワイト・タワー」です。
東面の濠
ロンドン塔の周囲は濠で囲まれています。今では芝生が植えられた空濠になっていますが、1826年から1852年まで城代を務めたウェリントン公が、淀んで悪臭を放っていた水を排水するまでは水濠でした。
右上の茶色い煉瓦造りの建物はマーチン塔、左奥はタワー・ブリッジです。
北東面の濠
「ブラス・マウント」の上が、マーティン・タワーで、右奥へ「ブリック・タワー」、「ボウヤー・タワー」です。
北西面の濠
当写真はロンドン塔の北側(地下鉄タワー・ヒル駅の前)から西側を撮ったもので、3つの塔が並んで見えますが、左手前からボウヤー・タワー、フリント・タワー、デヴェル・タワーです。
北西から望むロンドン塔
正面手前の固い防備は「レッゲス・マウント」で、1280年以降のエドワード1世による外側幕壁(城壁)強化工事の一部として増強された。1682年以降には、2列の大砲を載せられるように高くされた。
その奥に見える円柱の塔はデヴェル・タワーで、左へフリント・タワー、ボウヤー・タワーです。
西面の濠
当写真は、北西から南の方を撮ったもので、濠の奥右に見える円柱の塔が、登城口のミドル・タワーで、左側に見える塔がバイワード・タワーです。
【登城記】
ローマ時代の城壁
地下鉄タワー・ヒル駅を出ると右奥に城壁が見えます。これは、古代ローマ時代の城壁で、この付近は往時の城壁がほぼ完全に残っています。城壁の手前には「ジュリアス・シーザー(カイサル)」の銅像が立っています。
地下道を通ってロンドン塔へ
地下鉄タワー・ヒル駅を出ると、右手に道路をくぐるトンネルがあり、その向こうにロンドン塔が見えます。ロンドン塔へは、トンネルをくぐって行きます。
チケット売り場
トンネルをくぐり抜けると、正面にロンドン塔があります。左手にロンドン塔を見ながら、右へ歩いて行くとチケット売り場があります。チケット売り場の奥、右の建物はウェルカム・センターです。
【入口部分】
ライオン・タワー跡(右奥はミドル・タワー、左奥はバイワード・タワー)
この西側の入口は1275年から1281年にかけて造られ、3つの土手道(土橋)と2つの跳ね橋、後にライオン・タワーと呼ばれるようになる外塁と、現在も残るミドル・タワー及びバイワード・タワーの2つの門楼から成っており、この入口部分全体を取り囲んでいたのが水濠であった。
ロンドン塔に向かうには、まず最初の土手道(土橋)とライオン・タワーに続く跳ね橋を通って濠を渡ったと考えられる。濠は、1845年にウェリントン公の命で排水されたが、今も、1930年代に発掘されたライオン・タワーの跳ね橋の落とし穴を見ることができる。
ライオン・タワーの名は、中世に設置された王室の動物園の一部として、ここにライオンが飼われたことに由来する。尚、動物園は1834年になくなった。(現地購入誌より)
写真右へ廻り、ミドル・タワーをくぐって入城します。
ミドル・タワー
往時は、ライオン・タワーに続く最初の跳ね橋を渡ると、次の跳ね橋があり、その先のミドル・タワー(写真左)から入城するようになっていました。現在のミドル・タワーの形は13世紀のものですが、1717年に外装が施され、ジョージ1世の紋章がアーチを飾っています。
ミドル・タワーからバイワード・タワーを
ミドル・タワーをくぐり抜けると、最後の土手道(土橋)を渡ってバイワード・タワー(写真奥)へ向かいます。尚、ミドル・タワーには2つの落とし格子があったそうで、今も落とし溝があるそうですが、気が付きませんでした。
土手道(土橋)から西面の濠を
バイワード・タワーへの土手道(土橋)から西面の濠と城壁を撮ったものです。右の高い塔はビーチャム・タワーで、エドワード1世が建造し、1281年に完成しました。
ビーチャム・タワーには入館しなかった(見落とした)のですが、当タワー内には多くの貴族たちが幽閉されたそうで、壁面にはそれらの人々が記した刻字が残っているそうです。女王・メアリー1世に処刑され、僅か9日間だけの女王となった悲劇の人「ジェーン・グレー」も、その一人で、ジェーンの夫・ギルフォード・ダドリーが彫ったという「JANE」の刻字も残っているそうです。
バイワードタワー(ロンドン塔南側テムズ川沿いから撮影)
バイワード・タワーはエドワード1世の門楼の中でも最強といわれている。円筒形をした2つの巨大な13世紀の塔で守られており、2つの落とし格子があったそうです。
バイワード・タワーのゲートから(奥の道はウォーター・レーン)
今でも、その一つが残っているそうですが、気が付きませんでしたというか、覚えていません( ̄ー ̄;。
ミント・ストリート
バイワード・タワーをくぐり抜け、左へ曲がるとミント・ストリートで、往時は、外側と内側の城壁の間の大部分のスペースが、造幣局の作業場、オフィス、住居で占められていたそうです。
右手前の多角形の塔は「ベル・タワー」で、道の奥の塔は「ビーチャム・タワーです。「ベル・タワー」は、元々はテムズ川の中に立っていたそうで、ロンドン塔の中でホワイト・タワーに次いで古い塔で、12世紀にリチャード獅子心王のために建てられたもので、500年以上にわたって消灯の鐘を鳴らしているのでこう呼ばれているそうです。但し、現在の鐘は1651年のものです。
ベル・タワーはロンドン塔の最高司令官の住居に隣接していたため、重要な囚人を監禁する最適な場所と考えられ、トーマス・モアとジョン・フィッシャーは、ここに投獄されました。
ウォーター・レーン
エドワード1世は、1275年から1285年にかけて、テムズ川を埋め立ててウォーター・レーンを造りました。何百本という木杭を立てて、水際を後退させて、新しい外側城壁(幕壁)で囲まれた外郭を築きました。
正面奥右側の建物は「セント・トマス・タワー」、左側の塔は「ウェイクフィールド・タワー」で、その手前は「ブラディ・タワー」です。また、左側の城壁(内側幕壁)の上の建物は「クイーンズ・ハウス」です。
まずは、城壁の上を廻ろうと思い、写真右奥に見える階段を登って、セント・トーマス塔の中へ入って行きます。
【中世の宮殿】
「セント・トマス・タワー」、「ウェイク・フィールド・タワー」、「ランタン・タワー」という順に見学していきます。これら3つの塔を合わせて「中世の宮殿」と呼んでいます。かつてロンドン塔の居住部分の中心に位置し、13世紀の生活が紹介されています。尚、セント・トマス・タワーの中を通って城壁へ出たため、悪名高い「トレーターズ・ゲート」を見落としてしまいました(;>_<;)。
セント・トーマス・タワー内部(エドワード1世の寝室)
セント・トマス・タワーは、1275年から1279年にかけてエドワード1世により建てられました。1294年11月に王が過ごしたと思われる寝室が再現されています。
セント・トーマス・タワー内部(小礼拝堂と暖炉)
ウェイクフィールド・タワー内部(ヘンリー3世の玉座)
ウェイクフィールド・タワーは1220年から1240年にかけて、ヘンリー3世の住居の一部として建てられました。謁見室が再現されています。
【Wall Walk】
(South Wall Walk)
城壁の上へ(奥の塔はランタン・タワー)
セント・トマス・タワーとウェイクフィールド・タワー内部を見学し城壁の上へ出ます。正面奥が中世の宮殿の一つ「ランタン・タワー」です。ランタン・タワーはヘンリー3世妃の一部として建てられました。後に、エドワード2世がロンドン塔に滞在する時に、ここを使うことを好んだため、王の部屋に造り替えられていったそうです。1774年の火災で焼失し、現在の建物は19世紀のものです。ここからは、左回りに城壁の上を歩いて行きます。
ヘンリー3世の水門とタワーブリッジ
ウェイクフィールド・タワーから城壁の上に出ると、右手下に「ヘンリー3世の水門」が見え、その後方にタワー・ブリッジが見えます。「ヘンリー3世の水門」は、1220年代初めに、ヘンリー3世のためにテムズ川からの入口として建てられた。そこから、ウェイクフィールド・タワーの反対側の小さな専用口を使って目立たないように上階の王の居所に向かうことができたのだそうです。
セント・トマス・タワー&ウェイク・フィールド・タワー
当写真は、城壁の上を歩き、ランタン・タワーの手前から振り返って撮ったものです。ヘンリー3世の水門の向こうに見えるのがセント・トマス・タワーで、その右がウェイクフィールド・タワーです。
クレイドル・タワー
ランタン・タワーを通り過ぎると、右手の外側城壁の上に「クレイドル・タワー」が見えます。クレードル・タワーは、エドワード3世が王の居所に直接行くための専用水門として建てられました。ここも内部見学ができるようでしたが、パスしてしまいました。
デヴリン・タワー&ウェル・タワー
城壁の上をさらに東進すると、右手奥に2つ並んだ塔が見えて来ます。写真奥のタワーがデヴリン・タワーで、その右手前のタワーがウェル・タワーです。デヴリン・タワーは、14世紀に、初期の塔と水車場があった場所に建てられました。ウェル・タワーは、エドワード1世の13世紀の外側城壁の一部です。
ソルト・タワー
内側城壁の上をさらに東進すると南東角部に建てられたソルト・タワーへ出ますが、その前に槍を持った兵士が・・・。ソルト・タワーは、元々、テムズ川を真下に見下ろして建ち、混乱の時期には、1階で射手が5つの狭間から矢を放って塔を守った。平時には、貯蔵庫として使用されたが、その後、何世紀にもわたって牢獄として使用され、2階には囚人達が刻んだ多くの刻字が残っているそうですが、見落としてしまいました(/。ヽ)。
(East Wall Walk)
ブロード・アロー・タワー
ソルト・タワーを見た後は、東面の城壁上を北進します。最初に現れるのは「ブロード・アロータワー(正面奥)」です。ヘンリー3世が1230年に建てた塔で、王室の礼服や貴重な調度品が保管された。
コンスタブル・タワー
ブロード・アロータワーを過ぎ、木の戦闘台沿いに歩いて行くと「コンスタブル・タワー」が現れ、その前に寝ずの番をする中世の兵士の彫像が立っていますw(*゚o゚*)w。コンスタブル・タワーはヘンリー3世が13世紀に建てた塔に場所に19世紀に建てられたもので、1381年に起きた農民一揆の様子を伝える展示があります。
ヨーマン・ウォーダーの住居
木の戦闘台から外側を見ると、ヨーマン・ウォーダー(衛兵)の19世紀の住居が見えます。
マーティン・タワー
コンスタブル・タワーを通り過ぎ、さらに北進すると「マーティン・タワー」が現れます。現在、「クラウン・ジュエル」王の宝器)はウォータールー兵舎に収められているが、1669年から1841年まではマーティン・タワーに保管されていました。現在、ここには「歴史で見る宝冠展」があり、王冠などが展示され、宝石が付いてない王冠や世界最大のカリナン・ダイヤモンドの見本などが見られます。尚、マーティン・タワー内は撮影禁止です。左に見えるのはブリック・タワーです。
(North Wall Walk)
マーティン・タワーから先は北面城壁へ出ます。
ブリック・タワー
ブリック・タワーは、マーティン・タワーの、すぐ西側にあります。ブリック・タワーは1841年の火災で損壊した後建て直されました。直ぐ左下の城壁の上やブリック・タワーの屋根の上には猿(彫り物)が・・・w(*゚o゚*)w。
国王の獣達(ブリック・タワー内)
ブリック・タワー内では、ロンドン塔にあった「国王の動物園」の歴史を紹介する展示がされています。
ローマ時代の城壁
ブリック・タワーを出て、外側を見ると、外側城壁の向こうの地下鉄タワー・ヒル駅の横に残っているローマ時代の城壁(写真中央上)が見えます。
ボウヤー・タワー(その奥にフリント・タワーとデヴェルー・タワー)
ブリック・タワーから西進すると、ボウヤー・タワー、フリント・タワー、デヴェルー・タワーと続きます。これらを見てから、城内へ下りて行きました。
【城内】
【ホワイト・タワー(南面城壁上から撮影)】
ウィリアム征服王が建造を開始した石造りの塔は、1100年頃に完成し、威風を高めるために1240年に漆喰で白く塗られました。最上階は1490年に増築され、タマネギ型の塔の屋根はヘンリー8世の時代に付け加えられました。
タワーに3つの大きな役割がありました。第1は、建物自体が要塞であること。第2は、王が時折使用し、また重要な儀式を執り行うのに相応しいこと。そして、最も重要な目的は、ノルマン人の新貴族や征服されたイングランド人に国王の権力を見せつける役割を果たすことでした。
しかし、14世紀から19世紀までの重要な役割は軍用の貯蔵庫で、それに合わせて様相を変えて行きました。この辺りは、安土城を除く多くの日本の天守閣と同じですね(*^_^*)。その後は、武器や甲冑を収める博物館として現在に至ります。
ホワイト・タワーの中へは、昔も今も、外側に設けられた階段を登って入って行きます。
ホワイト・タワー内部
ホワイト・タワー内部には、物凄い数の豪華な武具や甲冑などが展示されており必見です。地下には17・18世紀の大砲も展示されています。また、2階にはセント・ジョン礼拝堂があり、アングルノルマン初期の教会建築が残っています。
ヘンリー8世若き頃の甲冑(ホワイト・タワー内部)
ヘンリー8世は、6度の結婚をして、次々と妃を離別・処刑し、離婚を認めなかったカトリック教会・教皇に反発し、英国国教教会を設立した王として有名です。ヘンリー8世の現存する甲冑は6つあるが、これは1510年から1515年頃にかけて、彼がまだほっそりとして、颯爽と馬を走らせていた頃に作られたものです。
ヘンリー8世晩年の頃の甲冑(ホワート・タワー内部)
晩年は、この甲冑からも分かる様に、次第に肥満して健康を害し、56才で亡くなりました。兎に角、全てがデカイですね(笑)。尤も、死亡原因は梅毒に罹患していたからともいいますがね。
秀忠寄贈の鎧兜
1613年に、徳川秀忠がジェームス I 世に贈ったという甲冑で、状態はかなりいいです。ヴィクトリア時代からの展示物で、「倫敦塔」の中で漱石がビーフイーター(ヨーマン・ウォーダー) に「蒙古からチャールズ2世に贈られたもの」と、適当なこと吹き込まれてたのがこれです(笑)。日本からの贈り物には、他にも鐙や備前政光の刀も展示されています。
【ホワイト・タワーの東側】
青銅製24ポンド・カノン砲
ホワイト・タワーの北東隅に青銅製の24ポンド・カノン砲が置かれています。このカノン砲は、重さが5842kgあるそうで、1800年頃にマルタ島から運ばれてきたのだそうです。砲身にはキューピッドと葡萄の蔓が帯状に装飾されています。1827年に作られたという、龍の装飾がされた砲を運ぶ車もかっこいいです。
ワードローブ・タワー
ホワイト・タワーの南東隅には「ワードローブ・タワー」が残っています。ワードローブ・タワーは、ローナ時代の稜堡跡に12世紀に建てられたもので、1532年にはブロード・アロー・タワーに連絡されて、そこに礼服やベッド、タペストリーを保管しました。
ローマ時代の市壁位置 ~ Line of Roman City Wall(South Lawn)~
ホワイト・タワーの東側には、西暦200年頃に築かれたローマ時代の市壁位置を示すラインがあり、僅かに市壁も残っています。背後の建物は、右がホシピタル・ブロック、左奥がフュージリア連隊博物館です。
【ウォータールー兵舎】
ホワート・タワーの北側には「ウォータールー兵舎」が建っています。ゴシック復古調で建てられ、1845年にウェリントン公が礎石を置いた。1000人の兵士が収容され、屋階には洋服屋、靴屋、大工の店があった。
1967年以来、「クラウン・ジュエル」が保管されている。ロンドン塔で最も見逃せないのが、この「クラウン・ジェル」かもしれません。ここに展示されてあるものは全て本物で、王や女王の身につける金糸のマントや戴冠式などで実際に使われた職杖などの財宝が展示されています。但し、撮影禁止です。
近衛兵
ウォータールー兵舎の前には近衛兵が立って守っています。
時々、見回りも・・・。
【タワー・グリーンとクイーンズ・ハウス】
ホワイト・タワーの西側にタワー・グリーンがあります。タワー・グリーンは庭園で、何世紀にもわたって閲兵場となっていましたが、それよりもヘンリー8世の2番目の王妃「アン・ブーリン」、ヘンリー8世の5番目の王妃「キャサリン・ハワード」、ヘンリー7世の曾孫でメアリー1世に敗れ9日間で廃位となった「ジェーン・グレイ」、エリザベス1世の寵臣「エセックス伯ロバート・デヴルー」などが処刑された場所として有名です。
処刑場跡とメモリアル
ロンドン塔の囚人たちは、地下鉄駅タワー・ヒル付近にあった処刑所で公開処刑され、その数は数百人にものぼるといいます。しかし、身分の高い囚人たちは見世物的な公開処刑からは免れ、このタワー・グリーンでひっそりと処刑されたといいます。
処刑場跡には、ブライアン・キャトリングの現代的な彫刻メモリアルが置かれています。
クイーンズ・ハウスの近衛兵
クイーンズ・ハウスの前にも近衛兵が立って守っています。クイーンズ・ハウスは、14世紀の城代の住居跡に建てられ、1540年に「中尉の住居」となりました。中世の石造り建築の一部がテューダー朝時代の木組みの建築の下に残っています。建物の名前は、君主が王か女王かで変わるそうで、現在は「クイーンズ・ハウス」となるわけですね。尚、クイーンズ・ハウスは入館できません。
こちらも、時々、見回りを・・・。
ヨーマン・ウォーダー
ヨーマン・ウォーダーズ は、ヘンリー7世が1485年に創設したロンドン塔の衛兵隊で、「ビーフ・イーター」というニックネームでもおなじみです。その昔は給与の一部として牛肉が支給されたからとか、ロースト・ビーフを好んで食べたからとか言われますが、はっきりしないようです。ロンドン塔が観光名所となった現在では、名誉職として、伝統的な服装を着て、主に観光ガイドなどの仕事をこなしています。普段は紺色に赤い線が入った服で、ボトムズは長ズボンですが、年に数回の特別な日には赤色の正装を着用するそうです。尚、チームは、男性34名と女性1名からなります。
内奥郭の城壁(左の塔はウェイクフィールド・タワー、右の塔はブラディ・タワー)
手前の少し崩れた城壁は、ヘンリー3世の内奥郭の西側塁壁の遺跡で、後世に建てられた建物で隠れていましたが、第2次大戦で爆撃を受けて見つかったのだそうですw(*゚o゚*)w。
尚、当写真はホワイト・タワーへ登る外側階段の上から撮ったもので、背後には、左側からウェイクフィールド・タワー、ブラディ・タワー、クイーンズ・ハウスが見えます。
ブラディ・タワー(左側の塔はウェイクフィールド・タワーです)
帰りは、ブラディ・タワーをくぐって行きました。アーチの下には「落とし格子」が見えます。
「ブラディ・タワー」、その名も「血塗られた塔」です。1220年代初期にヘンリ3世の主水門として建てられましたが、1280年以降は陸門となりました。
この塔では、非常に陰惨な事件が起こりました。1483年、エドワード4世の二人の息子、13歳で即位した兄のエドワード5世とその弟、11歳のリチャード(ヨーク公)がこの塔に幽閉されました。王子達の姿は、リチャード3世の戴冠式後の、ある日突然、この塔から忽然と姿を消しました。そして191年後、「ホワイト・タワー」の南階段の下から二人の少年の遺骨が発見され、それが姿を消した二人のものに違いないと断定されました。彼らは、おそらく絞殺され、その後木箱におさめられて埋葬されたものだといいます。この事件の首謀者はリチャード3世であるというのがもっぱらの説になっています。
落とし格子(ブラディ・タワー内)
ブラディ・タワー内には、落とし格子のからくりが展示されています。