アヴィニョン

ローヌ川対岸から望む法王庁宮殿

中世に法王庁が置かれ周囲を城壁に守られた城塞都市

フランス語名

Avignon

所在地

プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏ヴォクリューズ県アヴィニョン郡

形状

城塞都市

訪城日

2011/06/12~06/14

歴史等

アヴィニョンは新石器時代の紀元前4000年頃から人が住んでいることで知られる。カヴァリ人がローヌ川の上に突き出した巨大な堆積岩でできた天然の要塞を人の住める集落に造り直した。漁業を営む好戦的な彼らは、ケルト語で「渦巻」を意味する「アウェン」と、「殿様」を意味する「イオン」を合成して、『水の殿様』を表す『アウェニオン』という言葉を作り、建設中の町に名前を付けた。
紀元前600年にマッサリア(現在のマルセイユ)を建設したボーカイア人は、アウェニオンの安定した地盤が気に入り、ここに河川港を築いた。
そして、ローマ人が支配するようになると、この町はさらに発展を続け、名前も「アヴェニオ」に変わった。
その後、アヴィニョンはサラセン人に占領された後に、フランク族に征服され、ブルグンド族、東ゴート人、再びフランク族の手に次々と渡った果てに、イベリア半島の強大な覇者となっていたムーア人の支配下に落ちた。
しかし、737年にカール・マルテル率いるフランク人によってムーア支配は734年から737年の短期間に終わったが、この包囲戦で被ったアヴィニョンの被害は大きく、ローマ時代の遺跡もほとんど失われ、その後のアヴィニョンは、14世紀初頭まで歴史の表ページに出てこない。
そして、1309年、法王庁が移されてくるという、この町の様相と歴史を変える一大事が起こった。当時の法王たちは対立する抗争の中で、ローマで指揮を執ることが出来なかったのである。1304年にボルドーの大司教だったベルトラン・ド・ゴーが、フランス王フィリップ4世の圧力により第196代法王クレメンス5世とさせられて、さらに1309年にはヴァチカンからこのアヴィニョンへ移された。
アヴィニョン時代には、1377年のグレゴリウス11世まで、7人のフランス人法王が次々と就任した。そして、彼らのために広大な城は要塞化され、町の周囲にも城壁が築かれ、アヴィニョンは中世ヨーロッパでも指折りの宮廷を持つlことになった。
1378年からはアヴィニョンとヴァチカンの両方に2人の法王がいるという状態になり1417年までこの状態が続いた。
その後、フランス革命の時代までアヴィニョンは法王の使節によって管理され、教会、モニュメント、貴族の館が次々と建設された。
『「現地購入冊子アヴィニョン日本語版他参照』

現況・登城記・感想等

城塞都市アヴィニョンではあるが、これほど町の周囲を囲む城壁が完璧に残っていると思わなかった。
中でも、法王庁宮殿(ロシュ・デ・ドン公園)の北側は、切り立った岩壁と城壁が組み合されて構築され、迫力満点で、感激ものだ(*^_^*)。
その他の箇所の城壁は、高さ4m~6mほどとそれほど高くない上、幅も1m強~2m弱と薄くて防衛力に欠けているという説もあるが、見張り塔を多く備えた城壁は、その周囲を廻ってみても、私には見応え充分で満足できるものだった。ただ、城壁の上を歩いて廻ることができないようだったのが残念無念(;>_<;)。
城壁周囲は、今は埋められて道路になっているが、往時は堀だったそうで、堀底からの城壁の高さは現在の2倍になるということなので、半分は地中に埋まっているということになる。
また、法王庁宮殿は、ヨーロッパ最大のゴシック宮殿で、壁の高さは50m、厚さ4mという強固なもので、これまた見応え満点だ。
訪れる前には、アヴィニョンがこれほど規模が大きく、しかも城壁がここまで良好に残っているとは思ってなかったので、得した気分に・・・(*^_^*)。
(2011/06/12~06/14訪れて)

ギャラリー

ローヌ川対岸から法王庁宮殿とサンベネゼ橋を望む ~画面をクリックにて拡大~
ローヌ川対岸から望む法王庁宮殿とサンベネゼ橋が、お薦めの写真スポットのようで、アヴィニョンに着くと、ツアーバスは最初にローヌ川対岸へと・・・。
法王庁とサンベネゼ橋

法王庁宮殿(右)とノートルダム・デ・ドン大聖堂(左)
IMG_3485

ノートルダム・デ・ドン大聖堂(Cathédrale Notre-Dame des Doms)
12世紀半ばに建造されたロマネスク様式の教会堂だが、何度となく改修されている。現在、ひときわ高い西側の鐘楼の頂上で黄金に輝く聖母像は、1859年に据え付けられたものである。
ノートルダム・デ・ドン大聖堂

法王庁宮殿(Palais des Papes)
法王庁宮殿は、かつてアヴィニョンに法王庁がおかれていた時に建造された宮殿である。フランス革命期の略奪によって内装は寂しいものとなってしまったが、現存するヨーロッパの中世ゴシック様式建築物のなかでは最大級を誇り、壁の高さは50m、厚さ4mという強固なもので、あちこちに開けられた小窓、巨大な石落とし回廊等が設けられ、まさに難攻不落の要塞である。
法王庁宮殿

法王庁宮殿ファサードとシャンポー門
法王庁入口がある正面ファサードは、シャンポー門の真上に聳える鉤形の尖塔を頭に抱く2本のほっそりした防御塔が特徴的だ。この防御塔は1770年ルイ15世のアヴィニョン包囲戦で破壊されたが、1933年に復元されたそうだ。
法王庁宮殿シャンポー門

法王庁宮殿前の広場
宮殿前の広場は、昼間から夜にはカフェテラスの机が並べられ多くの人が食事を楽しんでいる。私も、夕食にラパン(ウサギ)とエスカルゴ、そしてワインなどを楽しんだ。
法王庁宮殿広場

サン・ベネゼ橋
フランス民謡「アヴィニョンの橋の上で・・・♪」で有名だが、多くの人が手をつないで輪になって踊るには若干狭いようだ。一説によると、もともとは橋の「下」の中島で踊っていたらしく、長い年月を経て人から人へ伝えられていく過程の中で、なぜか橋の「上で」という歌詞に変わっていったとのことだ。
名前の由来は、神から橋の建設のお告げを聞いたベネゼという羊飼いの若者が、巨大な石をひとりで河に投げ込むなどの奇跡を起こして民衆を信じさせ、橋の建設の協力を得たという話から名付けられたそうである。12世紀末に11年の歳月をかけて完成。全長900m、22のアーチが当時はあったそうだが、その後、戦争やローヌ河の氾濫で、今では修復されず壊れたままの状態で、4つのアーチと小さなサン・ニコラ礼拝堂しか残っていない。

アヴィニョンサンベネゼ橋

【城壁】
城塞都市アヴィニョンの周囲を囲む城壁は、ほぼ完璧に残っている。
中でも、法王庁宮殿(ロシュ・デ・ドン公園)の北側は、切り立った岩壁と城壁が組み合されて構築され、迫力満点で、感激ものだ(*^_^*)。
その他の箇所の城壁は、高さ4m~6mほどとそれほど高くない上、幅も1m強~2m弱と薄くて防衛力に欠けているという説もあるが、見張り塔を多く備えた城壁は、その周囲を廻ってみても、私には見応え充分で満足できるものだった。
ただ、城壁の上を歩いて廻ることができないようだったのが残念無念(;>_<;)。
城壁周囲は、今は埋められて道路になっているが、往時は堀だったそうで、堀底からの城壁の高さは現在の2倍になるということなので、半分は地中に埋まっているということになる。
(ローヌ門と城壁)
アヴィニョンローヌ門と城壁

法王庁宮殿(ロシュ・デ・ドン公園)の北側の城壁と岩壁
アヴィニョン北側城壁1

法王庁宮殿(ロシュ・デ・ドン公園)の北側の岩壁
アヴィニョン北側城壁と岩壁

アヴィニョン北西部の城壁
アヴィニョン北西部城壁

アヴィニョン北西部の城壁内側
アヴィニョン北西部城壁内側

アヴィニョン南側の入口(レビュブリック門)
アヴィニョンレビュブリック門

アヴィニョン南側の城壁と堀跡
アヴィニョン南部城壁と堀趾

見張り塔
城壁のあちこちに見張り塔が設けられている。ほとんどの塔の内側は、壊されており内部構造が見える。
アヴィニョン見張り塔

(ロシュ・デ・ドン公園からの眺望) ~画面をクリックにて拡大~
法王庁宮殿の北側は一段高い地形になっており「ロシュ・デ・ドン)公園がある。公園からの眺望は素晴らしく、眼下にはローヌ川に架かるサン・ベネゼ橋や対岸のヴィルヌーブ・レザヴィニョンの町並みが見渡せる。写真右奥の建物はサンタンドレ要塞。
ロシュ・デ・ドン公園からの眺望

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