カルカソンヌ

オード川に架かる新橋からシテ城壁、コンタル城と旧橋を

数々の残虐な歴史が繰り広げられたヨーロッパ最大規模の中世城塞都市

フランス語名

Carcassonne

所在地

ラングドック=ルシヨン地域圏オード県カルカソンヌ郡

訪城日

2011/06/14、06/15

歴史等

紀元前6世紀以降、カルカソンヌにはガリア人が進出し定住し、紀元前3世紀頃には初期城塞都市が成り立っていたようだ。
紀元前118年には、古代ローマ帝国の植民都市となり、紀元前43年~紀元前30年にカルカソ城砦が創設された。
紀元後3世紀に、初期の蛮族の侵入があり、塔で側面を固めた城壁が構築された。
412年には西ゴート族により占領され、その後、西ゴート王国の北部の前線都市となった。507年には、フランク国王クロヴィス1世が、カルカソンヌ(シテ)を奪取するために西ゴート王国を攻撃した。
こうした入植の歴史は、カルカソンヌが、モンターニュ・ノワールとピレネー山脈の間に位置し、かつ地中海と大西洋を結ぶ要衝であることからきたものである。
725年から729年にはアラブ人(イスラム教徒)の手に落ちたが、750年頃にフランクのピピン3世が奪還し、カロリング王権が開始され、フランク人の頭目の一人が初代伯爵についた。
封建制初期は、都市と城塞の拡大期であった。1082年に、トランカヴェル家が権力を握り、カルカソンヌからニームにいたる広大な公国のなかで、都市をまとめ上げていった。そして、カルカソンヌは大いに栄え、1130年には、子爵はシテ(城壁内)にコンタル城の建造に着手させる一方、城壁の修繕を命じた。この時初めて、カルカソンヌは完全な城壁に取り囲まれた都市となったのである。
また、カタリ派(キリスト教の一宗派)の信仰が根付いたのもこの頃だった。カタリ派は真に清らかであるためには現世を捨て、非暴力と菜食の生活を実践したという。カタリ派はヴァチカンから異端とされた。
カタリ派の拡大に対して、1209年8月1日、第176代ローマ教皇インノケンティウス3世が命じたシモン・ド・モンフォール率いる十字軍により攻囲を受けた。2ヶ月後、町は裏切りにより奪取され、住民は弾圧された。レモン・ロジェ・トランカヴェルは降伏し、シテの塔に投獄中の子爵レモン・ロジェ・トランカヴェルが歿し、町はシモンに与えられた。
その後、1226年にはカルカソンヌはフランス王領に組み込まれたが、この時期はカタリ派の追放に関連して火刑や告発が横行し、都市住民にとっては受難の時代となった。かれらとローマ教皇との抗争は百年におよんだ。
1240年、ルイ9世は住民を追放し、町を破壊した。そして、1247年には外側の城壁を建設し、内側の城壁の防御を完璧なものに近づけた。この城塞建設以降、シテは戦火にさらされることもなくなり、百年戦争にも耐えた。
さらに、1270~85年、豪胆王フィリップ3世の治世下での工事において、ナルボンヌ門、トレゾー塔、サン=ナゼール門などの建造が行われ、ガロ=ローマン期の城壁やコンタル城の外堡の修復なども行われ、シテは難攻不落の城塞都市となった。
1659年に、現在につながるフランス・スペイン間の国境線を定めたピレネー条約が締結されたことにより、カルカソンヌは、その軍事的・戦略的地位を喪失した。それ以降、シテは兵器や食糧の貯蔵庫として使われ、第一帝政期にも戦火とは無縁の場所となった。
戦略的な重要性を失ったことによって、シテは状態が悪化し、塔は荒れ果てていき、1850年には全要塞の取り壊しの政令が出たが、クロ・ド・マイルヴィエイユが政令を無効にし、ヴィオレ・ル・デュクが要塞の修復を開始した。1879年に彼が亡くなると、門下に当たるポール・ベスヴィルバルドが遺志を継いだ。
『「現地購入誌・カルカソンヌ(エステル出版刊)」、「ウィキペディア」他参照』

現況・登城記・感想等

カルカソンヌは、今回のフランス旅行で一番訪れたかった所である。フランスでは「カルカソンヌを見ずして死ぬなかれ」と伝えられ、モンサンミッシェルに次ぐ年間300万人もの観光客が、中世のロマンに惹かれてこの街を訪れているのだそうだ。
カルカソンヌはフランスの最南部、スペインとの国境近く、ピレネー山脈の北側に位置する。フランス語はおろか英語でさえまともに話せない私には、旅行社主催のツアーに頼るしかないが、カルカソンヌが入っている旅行社主催のツアーは割り合い少なく、今回のツアー参加と相成ったのである。
ところがシテ内の見学時間は、コンタル城内への入城はなく、サン・ナゼール大聖堂内見学も含めて僅か1時間ほどであった。
幸い、宿泊地がカルカソンヌ駅のすぐ近くで、シテもそれほど遠くないようだったので、夕食前に大急ぎで登城したが、それでもシテの中を廻れたのはせいぜい40分強。これだけの大規模な城塞都市だ。やはり、翌日と合わせ最低3~4時間は欲しかった(/。ヽ)。
さて、現在のカルカソンヌ市はシテ(La cite )と下町(ville bbasse)が、オード川を挟んで立地する。
右岸の丘の上にあるシテは、約60の塔をもつ2重の城壁に囲まれ、一つの城(コンタル城)と一つのバシリカ(サン・ナゼール大聖堂)を抱えている。
総延長約3km(外側は約1.7km、内側は約1.2km)あるという鉄壁の防御をほこる二重の城壁は、さすがに見応えがある。その城壁は、塔も含めて、古いものは6世紀に西ゴート族が、新しいものでは13世紀にフランス国王ルイ9世が造ったもので、時代とともに増改築が繰り返され、それらの石積みが何層にもなっているのが面白い。
また、城壁の上から眺める街並みの景色も素晴らしい。
シテの城壁内は古い石積みの家や、城壁跡、井戸跡なども残り、中世の城塞都市の雰囲気を醸し出し、またお土産屋さんやレストランなどが並び楽しく散策できる。
ただ、2日も行きながら、時間外でコンタル城内に入れなかったのが残念無念(;>_<;)。
(2011/06/14、6/15登城して)

ギャラリー

シテ(Cite)の絵図 ~画面をクリックにて拡大画面に~
シテは、約60の塔をもつ城壁に囲まれ、一つの城(コンタル城)と一つのバシリカ(サン・ナゼール大聖堂)を抱えている。
西面は急崖の上を城壁で防御され、北西部から南西部にかけてはシテ周囲を二重の空堀と城壁がめぐらされている。ゆうに高さ10mはあろうかという城壁は総延長約3km(外側は約1.7km、内側は約1.2km)いう鉄壁の防御をほこる。
シテへの入城口は東側のナルボンヌ門と北西部にあるコンタル城の脇(南側)にあるオード門からの2ケ所ある。

シテ鳥瞰絵図

オード川に架かる新橋からシテと旧橋を ~画面をクリックにて拡大~
夕食前に大急ぎでシテへ向かい、オード川に架かる新橋(Pont Neuf)からシテ(Cite)とコンタル城(Chateau Comtal )を撮影。ここが一番の撮影スポットのようで、城とオード川に架かる旧橋(Pont Vieux)のコラボレーションが何とも絵になる。
カルカソンヌ駅からここ(新橋)までは速足で約10分ほどで着く。ここから10分ほどで着くかと思いきや、何の何の、まだまだ20分近く掛かるのです(汗)。
シテ遠景

新橋からシテ全景を ~画面をクリックにて拡大画面に~
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旧橋(Pont Vieux)を渡りシテへ向かう
新橋の手前を戻り、南側へ廻り旧橋を渡ってシテへと向かう。もう、すぐだとワクワク(*^_^*)。
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旧橋からシテ西面を望む ~画面をクリックにて拡大画面に~
旧橋上からは、川辺や中洲の木々が邪魔してシテの全体像が見え辛い。
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コンタル城を望む(旧橋上から)
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旧橋東詰からシテを望む
いよいよ近くなったことを実感するが、どうしてどうして・・・。ここからが遠かった。添乗員さんに左側に廻って行くように教えられていたので、そのとおり左側へ廻っていったが、右へ向かえば、直接コンタル城へ向かう登城道があるようだった。翌日も、バスは左側から廻って行ったので、右へ行けば違う場所が見えて良かったのに・・・。しかし、後の祭り(/。ヽ) 
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城壁周囲をめぐる外堀へ
ホテルから歩くこと、30分弱。最後は、登りに登って、ついに城壁周囲をめぐる外堀(北側部分)へ到着。写真左に見えるのは、二重城壁堀の外側と内側の両城壁。堀の右側も結構高い土塁になっており、これも含めると城壁は三重ということになる。 スゴイゾ~、カルカソンヌw(*゚o゚*)w。
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北東部の城壁と外堀
土塁の上を東側へ廻って行くと、北東部の城壁と塔が見え、その向こうに跳ね橋が見えてくる。右手前の塔は、ベラールの塔。その内側は、右がトレゾーの塔、中央の2本の塔はナルボンヌ門の塔。
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シテ内への正面入城口
シテ内への正面入城口は東側にあり、外濠に架かる跳ね橋(写真中央)を渡り、ナルボンヌ門(跳ね橋の右奥)をくぐって入城する。
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跳ね橋
シテ内へは、跳ね橋を渡り、ナルボンヌ門をくぐって行く。ただ、この跳ね橋は19世紀に修復されたものだが、本来の橋とは違い、修復工事の誤り例とされるそうだ。
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跳ね橋の南側の外堀と城壁
跳ね橋の南の方へ続く外堀と、城壁・塔の光景もかっこいい(*^_^*)。外側の塔は、左からラ・ヴァードの塔、ラ・ペイルの塔。内側の塔は、左からダウジャンの塔、サン・ローランの塔、トロケの塔。
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ナルボンヌ門(PORTE NARBONNAISE)
城内への入口は、2つの門をくぐって入城するが、やはり日本の城と同様、防衛上、枡形虎口のようになってなっており、真っ直ぐには進めないようになっている。それにしても、随分大きくて立派な門だ。ナルボンヌ門は、1270~85年に豪胆王フィリップ3世により建造された。
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ナルボンヌ門の南側の二重城壁
跳ね橋を渡り、左手を見ると、二重城壁が見える。実にかっこいい。左側(外側)の塔は、手前からラ・ペイルの塔、ラ・ヴァードの塔。右側(内側)の塔は、一番手前の頂部が崩れた塔が、サン・セルナンの塔で、奥へトロケの塔、サン・ローランの塔、ダウジャンの塔、バルタザールの塔と続く。
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北東部の二重城壁
この二重城壁の内側は短い草が生えていて、ゆったりした空間だ。こんな所で、弁当でも広げて食べたいものだ。左側(外側)の城壁の奥に見えるのはベラールの塔。右側(内側)は、手前からヴィウラの塔、元帥の風車の塔、トレゾーの塔。
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内側城壁の塔
左写真は、手前がヴィウラの塔で、奥がラ・マルキエールの塔。右写真は、手前から、ラ・マルキエールの塔、奥がヴィウラの塔。これらの塔は、写真で見ても分かるように、石積みが違う。それは、築きかれた時代が違うそうで、真ん中が最も古く、上下が中世の増築だそうだ。上はともかく、下の増築は、堀を深くしたためだそうだ。
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外側城壁をシテ内から
こうして内側から見るとあまり迫力を感じないものだ。
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外側の城壁とカルカソンヌの街の眺望(内側城壁内への入口から撮影)
左端の塔が、ムルティスの塔。
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ムルティスの塔からカルカソンヌの町の眺望
外側の城壁に建つムルティスの塔には階段があり昇ることが出来る。そこから見下ろすカルカソンヌの街並みの眺望は素晴らしい。
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ムルティスの塔から外堀と外側城壁を
城壁の真下は、土塁と空堀で固められている。その曲線美が何とも言えずかっこいいと思う。右奥に見えるのはノートルダムの塔。
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【城壁内の街を行く】
シテの中にはお土産屋さんやレストランなどが並び、楽しく散策できる。また、古い石積みの家や、城壁跡、井戸跡なども残り、中世の城塞都市の雰囲気を醸し出している。
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レストラン
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土産物屋さん
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騎士w(*゚o゚*)w 
この騎士は人形ですが、あまりにもよく出来ていて、一瞬、人が仮装しているのかと思ったw(*゚o゚*)w。どうやらレストランらしかった。
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井戸跡
直径3mはあろうかとうい井戸跡を見付けた。水は城を守るための命だ。この井戸には10以上もの種類の伝説があるそうである。残念ながら、中は見えないようになっていた。
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【コンタル城】
コンタル城はシテ内北西部にオード川側の内壁を背にして築かれた5つの塔を有する城である。
(コンタル城入口)
コンタル城には、2日間とも時間外で入れなかったのが悔しい~(;>_<;)。
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コンタル城東面を
入城できなかったので、止むを得ず、入口の隙間からコンタル城東面を撮影。
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コンタル城と空堀を南脇から
コンタル城の南側にちょっとした場所を見付け撮影。入城口から入ると城の周囲を囲む堀に橋が架かっており、橋を渡って入城するようだ。また、奥の跳ね出し櫓が、復元されたそうで、壁の上部に壁を見下ろすように作られており、その間には木製の通路で渡されている。床の開口部から敵に石や煮え湯を投げ下ろしたそうで、いわゆる石落としというわけだ。城というのは、何処も同じようなことを考えて造るものだねえ。
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橋と堀
橋の向こう側には大木の人が堀底を耕しているようだったが、どうやら花壇造りのようであった。
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コンタル城への西側登城口
コンタル城の南側にある道を降りていくと、西面の急崖に沿った登城道があった。こちら側からだと、直接コンタル城の近くまで登って来れるようだった。いわゆる搦手口ということになるのだろう。残念ながら、時間がなく降りていくことは出来なかった。悔しい(;>_<;)。
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【サン・ナゼール大聖堂】
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ステンドグラス 
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【シテの城壁北面を望む】 ~画面をクリックにて拡大画面に~
シテへの一日目の帰り道は、大きく北側を廻り、新橋を渡って帰ったら、途中に城壁北面がよく見える場所があったので撮影。
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≪空から見るカルカソンヌ≫ テレビ番組から
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