ノルマン王宮(シチリア州パレルモ県)

ノルマン王宮外観を

12世紀に初代ノルマン王ルッジェーロ2世が居城と定めて大幅な改築をした王宮

イタリア語名

Palazzo Reale di Normanni

別名

ノルマン宮殿(Palazzo Del Normanni)

所在地

シチリア州パレルモ県パレルモ

訪城日

2016/05/16

歴史等

【パレルモの歴史】
ノルマン王宮のあるパレルモの町の基礎はフェニキア人によって築かれたといいます。まもなくギリシア人の航海者や商人と交流を持つようになり、ギリシア語で「すべてが港」を意味する語がラテン語化したものだそうです。第一次ポエニ戦役(紀元前264年~241年)でローマの手に落ちました。
9世紀にはイスラム勢力が北アフリカからシチリア島に侵入し、831年にパレルモが陥落し、965年にはシチリア全島がイスラムの手に落ちました。そして、イスラム王朝の首都はパレルモに移され、この町には絢爛たるイスラム文化が花開きました。
11世紀には、南イタリアに到来したノルマン人がイスラム支配下のシチリア征服を開始し、1060年にはパレルモ、1091年にはシチリア全島がノルマン人の手に落ちました。ノルマン・シチリア王国の都もパレルモに置かれ、フランス文化とイスラム文化が融合した独自の都市文化を形成しました。
その後、13世紀にはフランスの王弟シャルル・ダンジューに征服され、アンジュー家の支配下に入りましたが、シチリア島民の反乱によってアンジュー家はナポリへ移り、シチリアはスペインのアラゴン家に支配されました。そして、1479年以降はパレルモにスペイン副王が駐在しました。
18世紀始めのスペイン継承戦争の結果、シチリアは一時オーストリアに渡りましたが、1734年スペイン・ブルボン家の王子カルロス(のちにスペイン王カルロス3世となる)によってナポリと共に征服されると、王宮はナポリに移り、パレルモは地方都市に転落しました。
19世紀始め、ナポレオン軍の南イタリア侵攻によってナポリのブルボン家が一時パレルモに逃れてきますが、ウィーン条約体制下で王宮は再びナポリに戻り、両シチリア王国が成立しました。
1860年、エマヌエーレ2世のサルデーニャ王国に南イタリア(両シチリア王国を含む)が併合され、1861年にエマヌエーレ2世が統一イタリア国王に即位したため、パレルモもイタリア王国の一部となり、再びシチリア第一の都市となり産業・経済の発展を極め、アール・ヌーヴォー様式の集中するイタリア有数の都市にもなりました。
【ノルマン王宮の歴史】
ノルマン王宮は、カルタゴ人たちがこの天然の良港にパレルモの基となる交易地を築いた紀元前8世紀頃にまで遡ります。一番高台だったこの地に、彼らは城砦を築きました。
その後ローマ帝国時代、ビザンチン帝国時代、アラブの時代を通じて重要な役割を担いました。
12世紀、初代ノルマン王ルッジェーロ2世はここを居城と定め、大幅な改築を行いノルマン宮廷やスワビア宮廷が置かれ隆盛を極めましたが、その後、放棄されました。
16世紀、アラゴン家によって再び手厚く改装され、その後ヨーロッパ各王家や総督らが次々に居城しました。
1947年以降はシチリア州議会に使われています。
『「現地購入誌・芸術と歴史の島 シチリア」、「シチリアへ行きたい(新潮社刊)」、「地球の歩き方・南イタリアとマルタ」他参照』

現況・登城記・感想等

パレルモには見どころが多いのですが、我がツアーは相当端折って、ノルマン王宮、大聖堂、クアットロ・カンティ、プレトーリア広場などを大急ぎで観光しただけです。
勿論?、ノルマン王宮も外観の写真タイムの時間が与えられただけですが、見るからに豪壮で堅固そうな城塞です。
是非、城内観光をしたかったのですが、残念ながら外観のみ(;>_<;)。
せめて、ヌォーヴァ門だけでも写真に撮りたかったのですが、バスが通り過ぎてから気が付き、大聖堂前の道から遠景を撮ることしかできませんでした。(/。ヽ)
(2016/05/16訪れて)

ギャラリー

ノルマン王宮西面
ノルマン王宮西面

ノルマン王宮南東部
ノルマン王宮南東部

ノルマン王宮南面の城壁
ノルマン王宮南東面

ヌオーヴァ門
16世紀後半の建造で、それより半世紀前に遡るカルロス5世入都を記念するために建てられた。ルネッサンス様式の影響が濃い凱旋門の形で、ピラミッド型の屋根にはパレルモ議会の象徴である鷲をかたどるマジョリカ焼きが飾られています。
ヌオーヴァ門

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