パルヌ(パルヌ市)

タリン門と掘割(水濠)

13世紀にリヴォニア騎士団が拠点を築き、その後ハンザ同盟に属した城塞都市

エストニア語名

Pärnu

歴史等

13世紀、リヴォニア騎士団がパルヌ河口に拠点を築いた。
14世紀半ばからはハンザ同盟に属して交易都市として発展した。
17世紀初頭までに現在の旧市街北西にあるパルヌ城とその東方の街区を囲む城壁(城塁)が築かれ、パルヌ城の西側には小型の稜堡が敷設された。
その後、ポーランド・スウェーデン戦争によってスウェーデン領となると、17世紀の半ばごろから防御が刷新され、17世紀末には東西対称のシンメトリックな美しい計画都市に生まれ変わった。

現況・登城記・感想等

パルヌは、今では夏のリゾートタウンとして有名なようですが、ハンザ都市時代に旧市街地の周囲を取り囲んでいたという大規模な城塁と掘割が旧市街の西側に残っていて、城塞都市の様子を偲ぶことができます。
現在の地図を見てみても、南西へ突き出た城塁をはじめ、往時の稜堡式城塞の星型の地形が分かるような気がします。
また、タリンからやって来た商人が辿り着き、城内へ入ったという「タリン門」も残っています。
他にも、パルヌを囲んでいた要塞の南東端に刑務所として建てられたという要塞タワー「レッドタワー」も残っているそうで、捜したのですが見つかりませんでした(/。ヽ)。
(2015/06/23訪れて)

ギャラリー

タリン門(城外側から)
かつて3基あった17世紀の城門の一つで、1710年までは「カール・グスタフ王の門」と呼ばれていました。かつて、タリンからきた商人がよくこの門を利用していたことからタリン門と呼ばれるようになりました。
タリン門場外から

タリン門(城内側から)
門というよりもトンネルのような分厚い構造になっています。
タリン門城内側

タリン門脇の掘割(水濠)と城塁
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南角部の掘割(水濠)と城塁
南角部の城塁は突き出ていますが、恐らく稜堡式城塞の跡でしょう。
IMG_7559

パルヌ川へ延びる掘割(水濠)
掘割は南角部から北西方向へ延び、パルヌ川に繋がっています。
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城塁
タリン門から掘割に沿って城塁が良好に残っています。
IMG_7575

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