チェスキー・クルムロフ城(チェスキー・クルムロフ)

旧イエズス会神学校前広場から望むチェスキークルムロフ城

中世の佇まいを残す世界遺産の小さな町「チェスキー・クルムロフ」の丘に上に聳える城

チェコ語名

Hrad a Zámek Český Krumlov(Castle Český Krumlov)

訪城日

2012/06/01

歴史等

チェスキー・クルムロフの集落が初めて文書に登場するのは1253年のことである。13世紀頃、この南チェコ一帯では、ヴィートコフ家が勢力を拡げていた。そしてヴルタヴァ川の崖の上に、クルムロフ城の最古の部分(現在、巨大な塔が建っている辺り)を築き、重要な交易路と交差するヴルタヴァ川の浅瀬を守る役割を果たしていた。
そして、ヴィートコフ家に由来するロジュンベルク家が1302年に領地を受け継ぎ、本拠地をクルムロフに置いた。
ペトル・ロジュンベルクの時代には、いわゆる上手の城が完成した。そして、城下にはラトラーンと呼ばれる家臣の居住区が発展し、同時にヴルタヴァ川右岸にも町が形成された。
ロジュンベルク家の治世は、経済・文化の発展をもたらし、城は当時台頭しつつあったルネッサンス様式の豪華な城館に改築され、町の家々はルネッサンス式の正面部分、彩色された外壁、装飾された梁天井、丸天井を取り入れた建物へと姿を変えていった。
ロジュンベルク家最後の領主ペトル・ボクも建設活動を続けていったが、財政難に陥り、1602年には皇帝ルドルフ2世に領地の売却をせざるをえなくなった。
その後、クルムロフの繁栄は停滞し、30年戦争(1618~48)に入ってからは荒廃していった。
1622年にはエゲンベルク家に与えられ、30年戦争終結後、エゲンベルク家は城の修復と同時に、劇場やその他の建物の建設を始めた。
エゲンベルク家が絶えると、1719年、領地はシュヴァルツェンベルク家の手に渡り、更に、城は改築された。クルムロフの町は、ロジュンベルク家の時代ほどではないにしても、再び繁栄していった。
19世紀に入り、シュヴァルツェンベルク家は、新たに改築されたフルボカー城に居城を移し、町は緩やかな衰退へと向かい、19世紀末以降、町の景観は大きく変わることはなく、中世の雰囲気をただただ維持していった。
第一次世界大戦の敗戦に伴い、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊すると、町はチェコスロバキア領となったが、1938年、ナチス・ドイツがチェスキー・クルムロフを含むボヘミアを併合し、チェスキークルムロフにはナチスドイツ軍の基地がおかれドイツ人兵士たちによって多くの建造物が破壊された。
1945年、ドイツは第2次世界大戦に敗北し、チェスキー・クルムロフはチェコスロバキアに復帰し、ドイツ系住民についてはチェコスロバキアの市民権と私有財産を剥奪、没収することが決定された。チェスキー・クルムロフの住民の多くはドイツ系であったため、多くの住民は市民権と私有財産を剥奪・没収され、追放され、町は荒廃状態となった。
そして、1948年の共産主義化により、城郭などの歴史的建造物が「封建時代の遺構」とみなされ、さらに、その荒廃に拍車をかけた。
ようやく歴史的建造物が徐々に補修されるようになったのは、プラハの春が訪れた1960年代後半以降のことである。
そして、1989年のビロード革命以降、町の景観の歴史的価値が再認識されるに至り、建造物の修復が急速に進められ、町はかつての美しさを取り戻し、1992年にはユネスコの世界遺産に登録された。
『「図説チェコとスロヴァキア・薩摩秀登著(河出書房新社刊)」、「現地購入誌:チェスキー・クルムロフ、歴史的な町、城砦、城」、「現地購入図解ガイド」、「ウィキペディア」他より』

現況・登城記・感想等

チェスキー・クルムロフは、ヴルタヴァ川が大きく湾曲する地にある中世のたたずまいを残した町だ。世界で最も美しい町の一つといわれ、1992年にユネスコの世界文化遺産に登録され、旧東欧の中でも、クロアチアのドブロヴニクとともに人気の観光地である。
町のどこからでも見えるのがチェスキー・クルムロフ城である。小さな町に不釣り合いなくらい大きく、チェコ国内で2番目に大きい城で、5つの中庭と40の建物が1kmに渡って連なっている崖の上に並んでいる。また、城館に続く城内庭園は1万1千㎡あるという。
13世紀に築かれてから、次々に城主が代わり、増改築が繰り返された結果、ゴシック、ルネサンス、バロック各様式が混在する非常に大規模な複合建築になったのである。
城から見下ろすチェスキー・クルムロフの景色は素晴らしく、以前行ったスペインのトレドを思い出した。
ヴルタヴァ川に囲まれた旧市街は、全ての建物が可愛らしい佇まいで、美しい教会や小さな店を覗いたりしながら楽しく散策でき、これまた、ドイツのローテンブルクを思い出した。
また、以前見たあるバックパッカーのブログに、スロベニアからきた旅人が『ヨーロッパの古都で君がまず訪れなければならない街が2つある。ひとつがドブロヴニク、もうひとつがチェスキー・クルムロフだ』と言ったというくだりがあったが、確かに魅力抜群の街であり、城だった。
(2012/06/01登城して)

ギャラリー

チェスキー・クルムロフ城と旧市街の案内鳥瞰図
(現地案内板をモノクロに変更) ~画面をクリックにて拡大画面に~
チェスキー・クルムロフは、ヴルタヴァ川が大きく湾曲する地に中世のたたずまいを残した町で、その北側背後の丘の上に、この小さな町には不釣り合いなほど大きな城が聳えている。
チェスキークロムルフ案内図

【チェスキー・クルムロフ城登城記】
我々を乗せた観光バスは、城の北側(裏側)山麓の駐車場に停まった。本来なら、日本の城でいうところの大手門である「赤の門」から登城し、第1中庭から第2、第3・・・と進みたいところだが、今回は逆に第5中庭から第4、第3というコースでの見学になった。
【チェスキー・クルムロフの案内板】
バスを降りて、チェスキー・クルムロフ城へ向かって歩いて行くと、チェスキークルムロフの町の案内板が立っていました。
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【城内庭園へ通じる橋】
バスを降りて、緩やかな坂道を登って行くと、城と城内庭園をつなぐ橋の下へ出た。この道を進み、左へ曲がると城内である。
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【第5の中庭へ・・・】
この門が往時のものかどうかは分かりません。門の向こうに、城の立派な尖塔が見えます。
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【第5の中庭】
門をくぐって入ったところが第5の中庭です。第5の中庭の北側(写真左の建物)には有名な「城内(オペラ)劇場」があるのですが、我々は無料見学コースなのでパスです(/。ヽ)。
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【前哨要塞(展望台)】
第5の中庭から右へ出ると展望台で、かつての前哨要塞の跡です。ここは、大変な人混みです。
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【前哨要塞(展望台)から城を】
写真左から、大堀切に架かるプラーシュチョビー橋、上手の城、造幣所、旧城守館とベルグフリード塔、旧聖ヨシュタ教会の塔。
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【前哨要塞(展望台)からの眺望】
前哨要塞跡(展望台)からの眺望は素晴らしい。全体的な光景は、スペインのトレドによく似ており、町の家並みはドイツのローテンブルクのような感じだ。一枚の写真で紹介したいところですが、ワイドに撮れなかったので、左側から右へと掲載します。

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【プラーシュチョビー橋を渡る】
この橋の上も、屋根つき通路となっており、城内劇場へと通じているそうだ。
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【大堀切とプラーシュチョビー橋】
第5の中庭と第4の中庭の間は大堀切で断ち切られ、そこにプラーシュチョビー橋が架かっています。この橋のアーチの高さはゆうに20m以上はあるでしょう。綺麗な橋ですが、迫力もスゴイです。この写真は、帰路に撮ったもの。
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【プラーシュチョビー橋から前哨要塞(展望台)方面を】
こうして見ると、先程の展望台が要塞跡の一部であるのがよく分かります。
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【第4の中庭】
第5の中庭横の建物も、スグラフィット技法による切石積みのだまし絵の壁であったが、第4の中庭へ入ると、それが一気に爆発です(笑)。石積みの絵だけではありません。窓も本物と偽物?がありますw(*゚o゚*)w。
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【第3の中庭】
だまし絵が、これでもかといった感じです。でも、嫌じゃなく、結構楽しいです(笑)。第3の中庭と第4の中庭は城館の壁に囲まれ庭で、第3の中庭の方が少し広いけど、よく似た感じです。
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【第2の中庭】
第2の中庭へ出ると、空が広くなった感じで、また、庭を囲む城壁のタイプが全く違い、雰囲気が変わります。中央に大きな井戸が残っています。そして、チェスキー・クルムロフ城の象徴ともいうべき尖塔(ベルグフリード塔)がよく見えます。
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【ベルグフリード塔と館の壁画】
第2の中庭から見上げるベルグフリード塔のフレスコ画の色彩とその下の館の壁に描かれたルネッサンス風装飾と壁画のコラボはなかなかの見ものだと思う。
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【第2の中庭に置かれている大砲】
第2の中庭には大砲が展示されている。カノン砲でしょうか。
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【熊】
第2の中庭と第1の中庭の間にある空堀には熊がいる。3頭だと思っていたら、親子合わせて6頭いるらしい。クルムロフ城では、既に16世紀から熊が飼われているそうだ。
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【旧城守館】
第2の中庭から第1の中庭へ入ったベルグフリード塔が建つ周辺が、「クロムロフ城最古の部分」です。
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【旧城守館】
当写真は、第1の中庭から振り返って撮ったものです。
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【第1の中庭】
第1の中庭へ出ると、正面に大手門たる「赤の門」が見える。第1の中庭の辺りは、当時は使用人・職人・家畜が住んでいた。左の建物は、旧塩貯蔵所ですが、現在、建物内には企業やインターネットカフェ、現在は観光案内所などがあります。
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【旧馬小屋】
旧塩貯蔵所の対面には旧馬小屋があります。現在は、美術館になっています。
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【赤の門の前から第1の中庭方面を】
赤の門の前に立ち、第1の中庭方面を見る。正面にベルグフリード塔、左側が旧馬小屋、右側が旧塩貯蔵所。旧塩貯蔵所の前にはオープンカフェが。
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【赤の門】
日本の城でいえば、大手門ということになりますかねえ。左の建物の壁は、スグラフィット技法(掻き絵手法)によるものですが、門の丸穴?を補強しているのは本物の石積みです(笑)。
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【橋の回廊】
赤の門の前の道を北へ向かうと門のような「橋の回廊」がある。この辺りは既に、ラトラーンと呼ばれる家臣の居住区になります。「橋の回廊」は、 城館からこのラトラーン通りの上を渡る回廊ですが、丸穴を補強しているように見える石積みは、だまし絵です。何ともややこしい(苦笑)。
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【搦手?】
城の北側に、九十九折れの登城道(進入禁止になっていたが)があった。いわゆる搦手道になるのでしょう。写真中央上にプラーシュチョビー橋が見え、左には上手の城が見えますが、このアングル、かっこいいと思いませんか?
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【旧市街へ
旧市街へは第1の中庭から旧城守館と旧馬小屋の間の細い石畳の階段道を下りて行くことになります。
【城の石畳の階段】
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【理髪橋から上手の城を】
階段を降りて道なりに歩いてくると、旧市街との間を流れるヴルタヴァ川に架かる理髪橋へ出る。ここから見上げる崖の上に建つ城の光景は迫力十分であると共に絵にもなります。
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【理髪橋から旧城守館とベルグフリード塔を】
巨大な岩の崖上に建つ旧城守館とベルグフリード塔は、頭上へのしかかって迫ってくるような迫力があり、最初にここに城(砦)を築いたのも頷けます。
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【理髪橋から旧市街方面を】
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【旧市街方面から振り返ってベルグフリード塔を】
巨大な岩の上に建つベルグフリード塔の圧倒的な迫力に魅入られ、理髪橋を渡ってから、さらに旧市街の細い路地に進んでからも振り返って見上げたが、やはりかっこいい(*^_^*)。
90橋から塔を 90旧市街から塔を

【スボルノスティー広場】
旧市街の中央にはスボルノスティー広場があり、南西隅に聖マリア柱が建っている。この広場からは四方に道が出ており、そのいずれの道も楽しく散策できる。
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【旧市街散策】
旧市街の道の両側には、ルネッサンス風の可愛い家々や、店、レストラン、ホテル、そして教会等々を見ながら、楽しく散策ができる。尚、ここもスグラフィット技法(掻き絵手法)による切石積み壁(だまし絵)がいっぱいです。以下は、それらの写真のいろいろです。解説は邪魔でしょうからやめときます(*^_^*)。
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94旧市街3 94旧市街4

95店1 95店2

【旧イエズス会神学校】
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【旧イエズス会神学校前の公園からチェスキー・クルムロフ城を望む】
~画面をクリックにて拡大画面に~
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【旧市街を守っていた堀切】
湾曲して流れるヴルタヴァ川が取り囲む旧市街の東端の最も括れている場所を、堀切で断ち切って旧市街を島状にしている。
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【堀切に架かる橋】
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