ディオクレティアヌス宮殿(スプリット市)

ディオクレティアヌス宮殿内のローマ時代の遺跡

ローマ皇帝ディオクレティアヌスが隠居の住まいとして築いた城塞宮殿

クロアチア語名

Dioklecijanova palača

所在地

クロアチア・スプリット=ダルマチア郡スプリット市

訪城日

2013/04/20

歴史等

ディオクレティアヌス宮殿は、西暦305年5月1日にローマ皇帝を退いたディオクレティアヌスが建てた宮殿で、実際の建造は、彼が帝位を退く10年前の、295年から始められていた。
それはダルマチア皇帝の属州州都サロナから5~6kmほどにあたる、ダルマティアの海岸から伸びる短い半島の南側の湾に位置していた。
その宮殿は堅牢な構造をしており、ほとんどローマの軍事要塞のようで高さ20m以上の堅固な城壁で囲まれていた。そして、宮殿とその周囲には、8千人から1万人もの住民が暮らしていた。
ディオクレティアヌスの死後は寂れ、476年に西ローマ帝国が滅亡すると、スパラトゥム(現スプリット)は東ローマ皇帝の支配下に置かれ、サロナの衛星都市のようになっていった。
639年頃にサロナがアヴァール人とスラヴ人の侵攻で略奪されると、住処を失った市民の大多数が近郊のアドリア海諸島へ逃れたが、東ローマ支配が地域で復活するにつれスパラトゥム(スプリット)へ戻って来て、堅固な城壁に囲まれたディオクレティアヌス宮殿内へ住んだ。この時、長く打ち捨てられていた宮殿内は、サロナからの避難民によって、新しい属州の首都として以前より大きな都市に改造された。
10世紀頃にあり、東ローマ帝国が衰退すると、ダルマチア地方はヴェネツィア共和国の影響を受け、クロアチア王国が事実上のスプリットの宗主国となり、自治権を授けた。
第一次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国が解体され、スプリットを含むダルマチア県は、セルブ・クロアート・スロヴェーヌ王国(1929年に国名をユーゴスラビア王国に)の一部となった。
第二次世界大戦後は、スプリットは、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成するクロアチア社会主義共和国の一部となった。
しかし、カリスマ的なチトーが亡くなり、ユーゴスラビアが解体すると、1991年にクロアチアが独立を宣言し、現在の形になった。
スプリットの歴史地区はクロアチアがユーゴスラビアから独立する前の、1979年にユネスコ世界遺産の文化遺産として登録された。
『「ウィキペディア・ディオクレティアヌス宮殿」、「ウィキペディア・スプリト」、「地球の歩き方・クロアチア スロヴェニア」他より』

現況・登城記・感想等

ディオクレティアヌス宮殿跡のあるスプリットは、アドリア海の東海岸にあるダルマチアの主都で、ダルマチアで最大(クロアチア第2)の都市である。
高さ20mもの城壁に囲まれたディオクレティアヌス宮殿跡は、現在でもスプリット市の内核として存在し、ローマ時代の遺跡の中にごちゃ混ぜになって、市場や広場、商店、住居があり、市民が暮らす珍しい街になっている。
西ローマ帝国が滅亡し、その後異民族が大挙してこの地に入り込んできた時に、サロナから追われた人々が、この堅固な城壁に囲まれた宮殿内に避難し、宮殿の基礎部分はそのままにして、その上から建物を増築する形で町を築いていったため、古代と中世の建物が複雑に絡み合うような独自の街並みが生まれたのだという。
街は、地元の人に混じって、多くの観光客でごった返している感じだが、その賑やかな街の中の市場や商店を散策して廻るのも楽しい。
勿論、宮殿地下室や城壁、城門、水道橋等々、見応えのある遺構が数多く残る上、大聖堂など見どころも多い。
まさに、町そのものが、古代と中世と現代の歴史博物館といったところです。
とても、僅かな自由時間では廻り切れなかったのが残念です。おまけに、表玄関たる西門(金の門)さえ、見忘れたことにあとで気が付いた(;>_<;)。
(2013/04/20訪れて)

ギャラリー

サロナ遺跡①(バスの車窓から)
トロギールからスプリットへ向かう途中(スプリットの北5~6km)、左手に「サロナ」遺跡が見えた。大劇場跡などが見えるらしいが、バスのスピードが速すぎて見損ねた(/。ヽ)。当然、写真も撮れなかったが、ちょっとした遺構と水道橋を何とか撮ることができただけでもメッケものかも。サロナは、今では、遺跡の多くは基礎部分しか残っていないらしいが、出来れば訪れたいところだ。しかし、パック旅行の身の上としては、当然、無理デス(/。ヽ)。
サロナ(往時はソリン)は、ローマ時代にダルマチア州の州都として栄えた町である。ローマ皇帝ディクレティアヌスがスプリットに宮殿を築いたのは、彼がサロナの近郊の出身であったからだと言われ、また、スプリットが栄えたのは、異民族の侵入に悩まされたサロナの住民が、スプリットに避難してきたことが発端であった。サロナが、ローマ人の支配下に入ったのはカエサルの時代で、その繁栄ぶりは、町の中心に残る大浴場や1万7千人収容の大劇場からも窺い知れるという。
99サロナ1

サロナ遺跡②(水道橋)
99サロナ2

【ディオクレティアヌス宮殿】
ディオクレティアヌス宮殿復元絵図(地下宮殿内展示より)
現在、宮殿の南側は埋め立てられて海岸道路になっているが、往時は、アドリア海が城壁のすぐ下まで迫っていたようです。
00スプリット復元絵図

スプリット到着(ディオクレティアヌス宮殿の南東櫓のすぐ前)
バスは、宮殿の南東に到着。この近辺は人と車でごった返している。また、テントを張った店が並んでいた。
11南東櫓と店々

ディオクレティアヌス宮殿の南東隅の櫓
バスから降りて、いよいよ登城です。宮殿の南東の櫓台と城壁が、見事に残っています(*^_^*)。
13南東櫓

南面のプロムナード(海岸道路)と宮殿の城壁
宮殿は南北215m、東西180mの方形で、周囲を厚さ2m、高さ20mという巨大な城壁で囲まれている。
宮殿の南面は、往時は海であったが、今は海岸道路になっており、道路の両側に車がぎっしり駐車してます。クロアチアなど、旧ユーゴスラビアでは、ほとんどがドイツ車で、日本車をあまり見掛けませんでしたが、道路の真ん中にトヨタ車が停まっていて、少し安心?
 
15プロムナード

南門(青銅の門)
南面城壁の中央に南門があります。当時は 船が横付けでき、物品を搬入したりしたのでしょうね。。
17南門2

南門をくぐり地下にあたる城内へ(アーケード付き柱廊)
南門をくぐり、城内地下通路へ入ると、通路脇にはお土産屋さんが並んでいる。
19地下の店が

井戸と水路
まずは、宮殿の地下を見学するために、左(西)へ曲がります。すると、左手に立派な井戸を見付けました。水は、ディナルアルプス山中から水道路にてヤドロ水源から持って来ていたようです。
20井戸1

20井戸2

宮殿地下室
宮殿の南側半分は皇帝の私邸として使われていたが、その地下には巨大な空間が広がっている。中世になると、地下室は倉庫として使われたり、ワインやオリーブオイル造りなどにも用いられるようになったが、都市化が進むにつれてゴミ捨て場として使われるようになり(写真正面奥の窓は投げ捨てる穴)、そのゴミでギッシリと埋まってしまった。そして宮殿の存在は忘れ去られてしまった。
その後、第二次世界大戦中にスプリット旧市街も空爆され瓦礫を片づける作業の過程で瓦礫の下に何かがあるらしいことが分かり終戦後の1950年に発掘が始まって地下部分掘り起こされ 古代ローマ時代の宮殿が現れた。

21地下宮殿1

ディオクレティアヌス胸像とレリーフ
宮殿地下室には、ローマ皇帝ディオクレティアヌスの胸像と金貨を大きくしたレリーフのプレートが飾られている。
25ディクレティアクヌス 25金貨

ローマ時代の柱
手前にある木材は、ローマ時代の木の柱で、左右の壁に見える穴に差し込まれ、天井の梁になっていたそうだ
21地下宮殿2

ゴミ捨て場と水洗トイレ 
中世に入り、都市化が進むと、宮殿はゴミ捨て場と化し、そのゴミで埋まってしまったという。その大昔のゴミが一部残され展示されている。また、往時から水洗トイレになっており、石で造られた管(写真下)が置かれている。
22水洗トイレ

ペリスティル(Perstil・列柱広場)
宮殿の地下から階段を上がるとペリスティル(列柱広場)に出る。
宮殿内へは、東西南北にある4つの門から入れるようになっており、いずれの門から直進しても、このペリスティルという広場に達する。このペリスティルが宮殿の中心部で、ディオクレティアヌス宮殿は、ペリスティルを中心に北が兵舎、南が皇帝の私邸に分かれていた。この列柱は、ディオクレティアヌスが領土のエジプトから運んだ大理石が使われ柱の元にはスフインクス像が、建物玄関にはライオンの像が置かれている。
IMG_0739

スフィンクスとライオン像
IMG_0730

前庭(ヴェスティブル・Vestibul)
この広間は前庭で、私邸の玄関の役割をしていた場所である。今では天井に穴が開いているが、かつてはモザイクで装飾されたドームで覆われていた。
前庭1

クラバ
前庭では男声合唱のクラバ(アカペラのコーラス)が・・・。素晴らしい美声で、ハーモニーも素晴らしかったが、私はトロギールで聞いたクラバの方が素朴な感じで好みでした。CDを1枚買いました。
前庭2

【ローマ時代の遺跡】
(南面城壁)
城壁

(遺跡と南面城壁)
IMG_0758

(遺跡と住居と大聖堂)
スプリット旧市街(宮殿内)は、ローマ時代の遺跡の中にごちゃ混ぜになって、市場や広場、商店、住居があり、市民が暮らす珍しい街になっている。

住宅1

(城壁のアーチ型の窓)
南門を入った地下のアーケード付き柱廊の上の城壁はアーチ型になっており、窓は塞がれていた。

アーチ型窓

(路地)
観光客があまり行かないような路地には、建物の壁が崩れないように、木材で補強されている所が何ヶ所もあった。石組みの壁が地盤沈下などで次第に傾いたりして、倒壊する危険性があるため、こうして隣の建物と互いに木材で補強しあっているそうです。
路地1 路地2

大聖堂
大聖堂は、もともとディオクレティアヌス帝自身の霊廟として建てられたが、後にキリスト教会として利用されるようになった。当写真は、東門(銀の門)の前の通りのカフェテラスから撮ったもの。
IMG_0762

鐘楼
大聖堂の鐘楼は中世になってから加えられたもので、ロマネスク様式の建物である。
大聖堂鐘楼

【鐘楼へ登る】
急な階段を
鐘楼へ登ることにしました。いきなり、狭くて急な階段を登り、さらに吹き抜けの螺旋状階段を登って行きます。下の方や、時々、外の景色が見えて、高所恐怖症の人には、ちょっと気味悪いだろうと思います。

大聖堂階段1 大聖堂階段2


中心部に鐘がぶら下がっています。
大聖堂鐘

【鐘楼上からの眺望】
鐘楼の上からは、360度のパノラマが楽しめます。まさに絶景です。
(西方面の眺望)
眺望1

(南方面の眺望)
南方面はアドリア海側で、港には多くの船が停泊し、ここスプリットが、アドリア海沿岸で最大の港湾都市であることが分かります。
眺望2

(南東方面の眺望)
写真左下に南東隅櫓が見えます(隅櫓などという、日本的な名称があるかどうかは知りません ̄ー ̄;)。港には大型船舶が停泊する姿が。
IMG_0777

(東方面の眺望)
写真左下の門は銀の門(東門)。
IMG_0778

(北方面の眺望)
スプリットの赤い屋根の街並みと背後の山並みとのコラボが素晴らしい景色を醸し出しています。
眺望3

大聖堂北側の通り
大聖堂の北側は広い通りになっている。写真奥の城壁の下は東門(銀の門)。
東門前広場

東門(銀の門)
東門

東面の城壁(城外から)
銀の門から外へ出ると、城壁に沿って商店のテントが並び、多くの人でごった返していた。
東面城壁

青空市場
宮殿の東側には青空市場があり、買物客は勿論、多くの観光客で賑わっている。
青空市場

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