要塞の城壁の上に並べて置かれた戦車や大砲
100回以上の戦闘の場となり、建設と破壊が繰り返された城塞
別名
カレメグダン城
所在地
セルビア・ベオグラード市、カレメグダン城址公園
現状・遺構等
【現状】 カレメグダン城址公園
【遺構等】 城門、塔、城壁、濠ほか
訪城日
2013/04/23
歴史等
ベオグラードは、ヨーロッパでも最古の都市の一つであり、同地における人の居住は紀元前6千年紀にまでさかのぼる。
この地は戦略的に非常に重要な地であるため、紀元2世紀にローマの第4軍団フラウィア・フェリクスがカストルム(ローマ軍団の駐屯地)として要塞を築いたが、その後、18世紀までの間に140回にわたって戦いの場となり、何度も建設と破壊が繰り返された。
要塞は、ゴート族とフン族に破壊された後、6世紀初めに再建されたが、100年も経たないうちにアバール族とスラブ族により破壊された。
また、この要塞の付近には古代の居留地シンギドゥヌムが建設され、それが後にスラブ人の居留地ベオグラードへと発展していった。
中世には、東ローマ帝国、フランク人、第一次ブルガリア帝国、ハンガリー王国、そしてセルビア人の諸領主の支配地となった。
そして、14世紀、専王ステファン・ラザレビッチの治世の頃に、ベオグラードはセルビアの新しい首都となり、要塞の大々的な拡張が行われ、城内に王宮が造られ、サバ川の岸には港が建設され、中世の先進的な都市が城壁内に発展していった。
1521年、ベオグラードはオスマン帝国に征服され、オスマン領ヨーロッパの重要拠点として中心都市となった。
その後、ベオグラード要塞はオスマン帝国とハプスブルク君主国に交互に支配され、重要な要塞として3回建て直された。1717年から1739年にかけて、オーストリアによる占領と近代的な工法による建築により、ベオグラード要塞はヨーロッパで最も強力な砦のひとつとなった。
しかし、1740年、オスマンがベオグラードに戻ってくる前に新しく建設された砦はすべて破壊され、ベオグラード要塞が現在のような姿となったのは18世紀の終わりである。
尚、ベオグラードが、セルビアの首都としての地位を回復するのは1841年のことであった。しかし、ベオグラード北部はその後も1918年のオーストリア=ハンガリー帝国崩壊までオーストリアの統治下に置かれ続け、その後統一されたベオグラードは、2006年にセルビアが独立するまでの間、ユーゴスラビア王国、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国、ユーゴスラビア連邦共和国、セルビア・モンテネグロの首都を歴任した。
『「サイト・SERBIA セルビア観光局ホームページ」、「ウィキペディア・ベオグラード」、「現地購入誌 TOP Travel Guide・BELGRADE」等より抜粋要約』
現況・登城記・感想等
サバ川とドナウ河の合流点に位置するベオグラードは、バルカン半島の交通の要衝であると共に戦略的に重要な地であり、数々の戦闘の舞台となり、その小高い丘に築かれたベオグラード要塞は破壊と創造が繰り返された。そのため、今残る要塞は、ほとんどが18世紀終わりに築かれたものだという。
現在は、そんな歴史が嘘のように、多くの市民で賑わう憩いの場「カレメグダン城址公園」となり、軍事博物館、美術館、動物園、子供用遊園地、レストラン、カフェなど多くの施設がある。
一方、城壁、城門、濠など良好に残る遺構は、それぞれが規模が大きい上、複雑な構造をしており、如何に堅固な要塞であったかが分かる。
中でも、要塞西側の入城口は、日本の城でいうところの枡形虎口の連続技です(*^_^*)。熊本城の竹の丸から本丸への枡形虎口ほど周囲の城壁は高くはないけど、複雑さにおいてはそれ以上ですw(*゚o゚*)w。すっかり魅せられて、写真を撮りまくってしまいました(苦笑)。
また、一部の城壁には銃痕が残っていたり、城壁の上や濠には、戦車や大砲が並べられていて、ついこの間まで戦下にあったのだということを生々しく感じさせられた。
ベオグラード要塞は実に見応えのある魅力満点の要塞である。ただ、非常に広いにも関わらず、自由時間が少なく、中心部しか見て廻れなかったのが何とも悔しい(;>_<;)。
(2013/04/23登城して)
ギャラリー
カレメグダン城址公園MAP(ベオグラード要塞略図) ~現地購入誌より~
要塞はサバ川とドナウ河の合流点を見下ろす小高い丘の上に建てられており、「上町(ゴルニ・グラード)」と「下町(ドーニ・グラード)」に分かれている。上町にはスタンボル門、時計塔、ジンダン門、ローマ井戸、ルジツァ教会、下町にはネボイシャ塔、カルロ6世門、トルコ風浴場施設跡や、火薬庫跡などがあり、見どころ満載です。
ただ、公園の広さは30haもあり、パック旅行の身の上の私は、あまりにも自由時間が少なく、上町の南西半分しか見て廻れなかったのが、本当に残念です(/。ヽ)。
カレメグダン城址公園
要塞跡は、今はカレメグダン城址公園として整備され、ドナウ川とサヴァ川を見下ろす市民の憩いの場になり、多くの人が訪れていました。我々は、公園の南側からサヴァ川に沿って、公園の西側を北へ向かって歩いて行きました。
公園からサヴァ川(西)方面を望む
公園(要塞)の西側はサヴァ川が流れ防御をしていた。遠くには、最近建設されたという大きな吊り橋が見える。
軍事博物館
サヴァ川に沿って、公園を北上すると、右手に軍事博物館が見えてくる。博物館には、紀元前からパルチザンまでに使われた戦闘服、戦車や銃火砲,槍の兵器類、バルカン半島の時代別勢力図などが展示されているらしいのだが、何せパック旅行の身の上です。入館する時間は全くありませんでした(/。ヽ)。
城壁(要塞中心部)が・・・
さらに北上すると、右手前方に高くて、がっしりした城壁が見えてくる。その角部には見張り台の塔が建ち、いよいよ要塞跡らしい雰囲気に・・・(*^_^*)。
空濠が・・・
右手に高い城壁を見ながら、さらに進むと、正面に空濠が見えてくる。空濠は、堀底道でもあるようだ。その向こうには「勝利者の像」が見える。
複雑な入城口
空濠(堀底道)は、非常に複雑な構造をしており、日本の城でいうところの、連続枡形虎口のようなものです。この空濠には、すっかり魅せられて、写真を撮りまくりました(笑)。
クロールジ門前の空濠と橋
城内へ入るクロールジ門の前は大規模な空濠で断ち切られている。右奥に見える建物は、’Bureeau for the Protection of Cultural Monuments’で、遺構を維持保存のための管理事務所といったところでしょうか。
勝利者の像 (Victor)
城の北西部には「勝利者の像」が建っている。この像は、ベオグラードのシンボルで、第一次世界大戦のセルビア王国の勝利を記念しています。連合国の勝利に大いに貢献したセルビア王国がこの戦争により男子人口の58%をも失ったため、戦後のセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国の設立はセルビア人にとって大きな意義を持っていました。右手に剣を左手に鳩を持っている勝利者は、カラジョルジェヴィッチ王の友人メシュトロヴィッチというクロアチア人の彫刻家が作った作品です。
入城
空濠に架かる橋を渡り、クロールジ門をくぐって城内へ入ります。この橋は、往時は恐らく、跳ね橋になっていたのではないでしょうか?
The entrance into the Roman Well
クロールジ門をくぐって入城すると、すぐ右手に”Roman Well”への入口がある。但し、ローマ時代の泉(或いは井戸)ではなく、18世紀のオーストリア帝国時代に築かれたもののようです。
内枡形
当写真は、クロールジ門をくぐって入城し、振り返って撮ったものです。まさに、内枡形になっており、入城してきた敵方を全方向から攻撃できるようになっている。枡形の形はともあれ、国の東西の区別なく、構造は同じですね(*^_^*)。
ドナウ川とサヴァ川の合流点
ベオグラード要塞はサバ川とドナウ河の合流点を見下ろす小高い丘の上に建てられているが、要塞の北西部が、ドナウ川とサヴァ川の合流点になる。写真左手前がサヴァ川で、右奥がドナウ川である。
火薬庫跡?
要塞の北西部下に、このように分厚い壁が崩れた跡があるが、案内図からみると、どうやら「火薬庫跡」らしい。
出丸?or馬出し?
火薬庫跡の右を見ると、城壁が少し突き出している。出丸か馬出しといったところでしょうか?? 奥の川はドナウ川です。また、右奥に小さく見える塔は”Nebojsa Tower(ネボシャ塔)”のようです。
Deftordar's Gate
「上町(ゴルニ・グラード)」から「下町(ドーニ・グラード)」へは、この門を通って下りて行くようになっている。勿論、私には、そんな時間はなかった(/。ヽ)。
ダマト・アリ・パシャの墓
オーストリアとオスマン帝国がバルカン半島のセルビアを主戦場として衝突した、墺土戦争(おうとせんそう、1716~18)の際にオスマン帝国を率いた宰相・ダマト・アリ・パシャの墓のようです。
サハト門(Sahat Gate)と時計塔(Sahat Tower)
ダマト・アリ・パシャの墓から東の方へ進むと、城壁が見えてくる。現在の要塞を巡る城壁は、18世紀前半ベオグラードがオスマン帝国領土からオーストリア帝国の手に渡っていた時代に建設されたものだそうです。
時計塔は、1740~89年にオスマン帝国によって建設された塔で、防戦のための高楼と同時に、イスラム教徒に祈りの時間を告げる役割を担った。時計塔というのは、バルカン半島つまりオスマン帝国統治を受けたヨーロッパ地域独特の建築で、トルコ本土では見られない。時計塔はバロック様式の影響が顕著で、キリスト教の鐘楼に負うことが多いといわれているそうです。
大砲が
サハト門の脇に、大砲が置かれていたが、この大砲は中世のもののようです。
二重城壁に挟まれた空濠
サハト門をくぐり抜けると、また城壁が・・・。内城とを隔てる城壁は二重城壁になっており、その間には空濠が掘られていたようです。今では、かなり埋め立てられてしまい、一部だけが浅い濠になり橋が架けられているが、往時は、かなり大規模な空濠だったのでしょう。
空濠跡には戦車や追撃砲などが陳列
空濠跡には、戦車や迫撃砲などの兵器が陳列されている。サハト門脇に置かれていた大砲と違い、こちらはかなり最新式のものが多く、ついこの間まで内戦があっただけに、何とも生々しい感じがする。
城壁上にも兵器が・・・
内城側の城壁に登ってみると、ここにも数多くの兵器が陳列されているw(*゚o゚*)w。
軍事博物館脇にも兵器が・・・
城壁上から軍事博物館の方を見ると、そこにも多くの兵器が陳列されていた。
城壁上から城内を
城壁の上から城内を見下ろすと、城壁が複雑に張り巡らされているのがよく分かる。正面奥が動物園、
スタンボル門
一旦、二重城壁に挟まれた空濠に下り、スタンボル門をくぐって内城へ入ります。スタンボルとはセルビア語でイスタンブールを表す。スタンボル門はその名のとおり、ベオグラードからイスタンブールへと続く出発点で、内門と外門のほか、19世紀の上旬まで、現在の共和国広場にもスタンボル門があったそうです。ベオグラードはオスマン帝国において、イスタンブールにつぐ最大の都市で、10万人もの人口だったと推定されているそうです。
内城からスタンボル門方面を振り返る
キャラドールド門(Karadorde’s Gate)へ
内城の見学は、ほとんど出来ず、キャラドールド門から外城部分へ向かいます(/。ヽ)。左側に見える土塁と城壁の姿がかっこよかったです。この土塁は、左の方へぐるっと廻っています。
キャラドールド門
キャラドールド門の外側は空濠で断ち切られている。
空濠はテニスコートに
セルビアは、さすがセレシュ、ジョコビッチ、レンドルなど蒼々たるテニス選手を生んだテニス王国です。空濠は、テニスコートとして利用されていました(*^_^*)。