西門から北へ延びる城壁
随・唐時代の長安城の城壁を基盤に明代に築かれた城壁
所在地
陝西省西安市
遺構
城壁、濠、門、見張り台
訪城日
2009/09/14
歴史等
西安は中国陝西省の省都であり、古くは中国古代の諸王朝の都となった長安である。
武王(周朝の創始者)は殷の紂王を滅ぼしたのち、現在の西安市の西南近郊の鎬京(こうけい)に遷都した。
秦代には、咸陽(かんよう・現在の西安の北約35km)に都が建設された。
秦滅亡後の戦乱の結果、漢朝を建てた劉邦は、破壊された咸陽の郊外に新たな都城を建設し、長安と命名、恵帝の時代には城壁が建築された。
その後、前漢・新・後漢(滅亡前の数年間)・前趙・前秦・後秦・西魏・北周が首都を設置している。
北周を滅ぼした楊堅(隋の初代皇帝)は、生活環境の悪化や政治的思惑からこれまでの長安を廃止し、その郊外の龍首原に新たな都城を造営した。この都城が、隋・唐時代の首都で国際都市「長安」である。
当時、長安は、東アジアのみならず世界各地の国々との交流の中心地であり、西域の隊商や周辺諸国の人々が頻繁に往来した。日本からも遣唐使や留学生、留学僧がしばしばこの地を訪ねた。
唐都・長安は玄宗時代に最盛期を迎え、人口100万人を擁する国際色豊かな文化都市となったが、その後、唐朝の衰微とともに凋落の一途をたどった。
そして、唐の滅亡直前に王朝簒奪を狙う朱全忠によって都が洛陽に移された後、長安が再び都になることは無かった。首都機能を失った長安の城壁は縮小され、一地方都市となった。
明代の1374~1378、荒廃した長安城の基礎の上に城壁が築かれ、名称も西安と改称され、地方都市として発展していった。
『「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)」他参照』
現況・登城記・感想等
中国で都市城壁が完全に残っているのは、この西安の城壁だけである。
今残る西安の城壁は、随・唐時代の長安城の城壁を基盤に明代に築かれた城壁で、市街地を取り囲む城壁の総延長は11.9km、高さは12m、頂部幅は12~14m、底部幅は15~18mもある壮大なものだ。
しかし、これでも面積は唐時代の9分の1に縮小されているそうで、唐時代の長安城の大きさが知れようというものだ。
東西南北には、それぞれ城門(東門を長楽門、西門を安定門、南門を永寧門、北門を安遠門という)が設けられ、いずれも登れるようになっているそうだ。現在は車道整備のため、大小12箇所の門が設けられているそうだ。
残念ながら、今回はバスツアーの身の上、西門(安定門)だけしか登ることが出来なかったが、この西門こそシルクロードの出発点なのである。「玄奘三蔵もこの道を辿って天竺へと向かって行ったんだ」などと、往時に想いを馳せるのも乙なものだ!?
西門は東西にそれぞれ三層の立派な門が建ち、その間を城壁が囲み、日本の城でいうところの所謂「枡形虎口」になっている。
また、西門から南北に延々と続く城壁の光景が見事だ。
今日は、この後、「兵馬俑」と「大雁搭」の観光であるが、私にとって本日の最大の目当ては、この城壁なので、他を外しても城壁(城壁の上は遊歩道になっている)を一周して、じっくり見て廻りたいものだが、そうもいかない(泣)。
(2009/09/14登城して)
ギャラリー
いよいよ西門(安定門)へ
朝から、あいにくの小雨まじりの天候。バスの中から西門を撮ったがちょっと写りが悪い。
西門(東側の門)と城楼
上写真と同じ門である。西門は東西にそれぞれ門が建ち、その間を城壁が囲み、日本の城でいうところの「枡形虎口」になっている。
西門(西側の門)の上の城楼
西門北側の城壁(城外側から)
西門北側の城壁(城内側から)
西門南側の城壁
城壁の上は遊歩道になっており、貸し自転車で走ることも出来るそうだが、自転車タクシーが・・・。これも一度乗ってみたかったな!
シルクロード出発点
西門こそシルクロードの出発点であり、いったん城門を出ると荒野が広がっていたという。「玄奘三蔵もこの道を辿って天竺へと向かって行ったんだ。」などと、往時に想いを馳せるには、あまりの変貌ぶりに戸惑いも・・・。
当写真は、東(城内)側を楼閣前から眺めたものだが、建設ラッシュによる変貌ぶりが凄い。西門から東にまっすぐ伸びる街路は「西大街」、「鐘楼(明代の建造)」、「東大街」と続き、東門に至る。ここが西安の古くからの繁華街で、今も百貨店、市場、郵便局などが並んでいる。正面奥には鐘楼があるはずだが、霞んでいてよく見えない。この鐘楼は、かつては大きな鐘が毎朝時を告げ、それとともに城門が開けられたという。
北側城壁
今回の旅行スケジュールは西門だけであったが、翌日、北京への移動のために、西安咸陽空港への車窓から北側の城壁がよく見え、濠もよく残っているようだった。尚武門前も通った。
(尚武門)