外曲輪虎口の枡形の土塁と馬出し土塁
幕末、幕命により蝦夷地の防備を固めるため仙台藩が築いた元陣屋
所在地
北海道白老郡白老町陣屋町681番地
形状
陣屋
現状・遺構等
【現状】 史跡公園他
【遺構等】 復元?冠木門(御門・詰門)、復元?太鼓橋、建物復元表示、曲輪、土塁、水堀、石碑、説明板
【国指定史跡】
指定日:昭和41年3月3日、(追加指定:昭和51年7月8日)
指定理由:東蝦夷地の白老から知床岬までの警備を命ぜられた仙台藩の陣屋で、遺構はいまなお見るべきものがあり、幕末北辺の防備の遺跡として価値がある。周辺は保存上、必要な部分を追加指定。
面積:32万6,583㎡
満足度
★★★☆☆
訪城日
1997/10/12
2007/09/11
歴史等
18世紀末、帝政ロシアが千島・樺太へ次々と南下侵攻してきて、幕府も蝦夷植民地化の危機感が広がった。幕府は、嘉永6年(1853)のペリー来航により、安政元年(1854)徳川幕府は鎖国を解いてアメリカ・ロシアと和親(通好)条約を結び箱館などを開港した。安政2年(1855)には、松前藩任せでは無理との判断から蝦夷の直轄を決め、津軽藩・南部藩・仙台藩・秋田藩・松前藩の5藩に分担警備させ蝦夷地防衛の強化をはかった(安政6年荘内藩と会津藩も加わる)。
仙台藩の守備範囲は、白老から襟裳岬を経手国後・択捉までの東蝦夷地といわれる広域であった。仙台藩では三好監物を蝦夷地御用掛に任じ、蝦夷地を視察調査させた。監物は元陣屋の設置場所を幕府の指示した勇払(現在の苫小牧)ではなく白老が最適と報告、幕府の承認を得て、安政3年(1856)白老に元陣屋を、広尾・厚岸・根室・国後・択捉に出張陣屋を築いた。
元陣屋の面積は6.6ヘクタールで掘と土塁を円形・弧状に巡らして内曲輪と外曲輪を構成している。ここには本陣・勘定所・穀蔵・兵具蔵・長屋などがあり、少し離れた東西の丘陵に愛宕神社と塩釜神社をまつった。
元陣屋には常時120名程の人々が駐屯して警備に当っていたが、慶応4年(1868)に勃発した戊辰戦争により、藩士達が撤収したためその使命を終えた。この間12年、慣れない土地での仙台藩士達の苦闘の歴史が、この陣屋跡には刻まれているのである。
『「現地説明板」、「白老元陣屋資料館展示&資料」参照』
現況・登城記・感想等
陣屋の広さは6.6ヘクタールとのことで非常に広い。曲輪跡や土塁がよく残っており、なかなかきれいに整備されている。とは云いながら、今だから云えることではあるが、「無駄なものを造ったもんだなあ」というのが正直な感想である。
(1997/10/12訪問して)
前回(1997/10/12)は、時間がなく外曲輪の虎口近辺だけで帰ってしまった。今回も、帰りの搭乗時間が迫っており大急ぎで廻るはめになってしまった。
外曲輪虎口外側の弧状の枡形と馬出しの土塁群はなんとも言えずかっこよく絵になる。
その虎口から入城すると、長円形の非常に広い外曲輪に出る。外曲輪の右側(東側)は孤状の土塁に囲まれ、土塁の外側には水堀が巡っている。土塁の高さは3mとのことである。そして左側(西側)は蛇行する小川を利用して備えとしている。そして外曲輪内には、2~5番まで番号が付けられた長屋と稽古場の建物の位置が復元されている。
外曲輪の奥(北側)には内曲輪があるが、外曲輪入口から内曲輪までは210mもあるとのことである。外曲輪と内曲輪間は水堀で分けられ、太鼓橋が架けられている。
内曲輪は直径約108mほどの円形で周りを土塁で囲まれ、その外側を水堀が巡っている。土塁の高さは1.8mであるが、入口部分は3mと高くなっている。内曲輪内には本陣・勘定所・兵具庫・厩などの建物の位置が復元されている。また、井戸跡も残っている。
内曲輪の北東すぐ近くに資料館が建ち、展示物等が非常に充実していたが、残念ながら時間がなく、15分ほどさっと廻って見るだけにした。見に行かれる方にはお勧めの資料館である。
この陣屋跡は史跡もあまり壊さず、しかも非常に綺麗に整備された公園になっている。
(2007/09/11登城して)
ギャラリー
白老陣屋中心部の図
白老陣屋石碑と説明板(外曲輪入口前に)
外曲輪虎口の枡形の土塁と馬出し土塁 ~クリックにて拡大画面に~
この外曲輪虎口外側の「弧状の枡形」と「馬出し」の土塁群はなんとも言えずかっこよく絵になる。
御門
この門は模擬門だろうか、復元だろうか?
外曲輪
長円形の非常に広い曲輪である。外曲輪の奥(北側)には内曲輪があるが、外曲輪入口から内曲輪までは210mもあるとのことである。
外曲輪東側の弧状の土塁
外曲輪の東側は孤状の高さ3mの土塁に囲まれ、土塁の外側には水堀が巡っている。
三番長屋復元表示
2~5番まで番号が付けられた長屋と稽古場が復元表示されている。
詰門と太鼓橋
外曲輪と内曲輪間は水堀で分けられ、太鼓橋が架けられている。
内曲輪と外曲輪を区画する水堀
内曲輪
内曲輪は直径約108mほどの円形で周りを土塁で囲まれ、その外側を水堀が巡っている。
内曲輪詰門付近の土塁
内曲輪の周りの土塁の高さは1.8mであるが、詰門付近の土塁は3mと高くなっている。
内曲輪本陣建物復元表示(写真奥は搦手口)
内曲輪内には本陣・勘定所・兵具庫・厩などの建物の位置が復元されている。
井戸跡
井戸跡もある。
内曲輪搦手口の枡形
搦手口両側の堀跡
この堀は、内曲輪周囲土塁の外側をめぐっている。
陣屋西側を蛇行する小川
白老陣屋資料館
内曲輪の北東すぐ近くに資料館が建ち、展示物等が非常に充実したお勧めの資料館である。
資料館内(蝦夷地各藩分治地図) ~クリックにて拡大画面に~
幕府は安政2年(1855)、松前藩任せでは無理との判断から蝦夷の直轄を決め、津軽藩・南部藩・仙台藩・秋田藩・松前藩の5藩に分担警備させ蝦夷地防衛の強化をはかった(安政6年荘内藩と会津藩も加わる)。
資料館内(三好監物他の人形)
右から三好監物、氏家厚時(後の初代蝦夷地警衛御備頭)、案内役の白老アイヌ(村長オマナンテ)。
仙台藩では三好監物を蝦夷地御用掛に任じ、蝦夷地を視察調査させた。監物は元陣屋の設置場所を幕府の指示した勇払(現苫小牧)ではなく白老が最適と報告、幕府の承認を得て、安政3年(1856)白老に元陣屋を、広尾・厚岸・根室・国後・択捉に出張陣屋を築いた。
白老陣屋模型
(全体)
(内曲輪)
(外曲輪)
(外曲輪虎口の枡形と馬出し)