南部藩ヲシャマンベ陣屋(長万部町)

ヲシャマンベ陣屋跡(現飯生神社)の土塁下の石碑と説明板

幕末、幕命により渡島半島東部沿岸の警備のために南部藩が長万部に築造

別名

南部藩屯所

所在地

北海道山越郡長万部町長万部375

形状

陣屋

現状・遺構等

【現状】史跡、飯生神社
【遺構等】郭、空壕、土塁、石碑、説明板

【国指定史跡】
指定日:昭和49年8月22日
指定理由:東蝦夷地における南部藩の北方警備形態を総合的に示す遺構として重要
面積:3万126.95㎡

満足度

★★☆☆☆

訪城日

1998/04/30
2007/09/09

歴史等

18世紀末、帝政ロシアが千島・樺太へ次々と南下侵攻してきて、幕府も蝦夷植民地化の危機感が広がった。
幕府は、嘉永6年(1853)のペリー来航により、箱館開港と箱館奉行所を設け、安政2年(1855)には、松前藩任せでは無理との判断から蝦夷の直轄を決めた。
幕府は、東北5藩に分担で蝦夷の警備を命令した。南部藩は、箱館から幌別までの海岸一帯(約248km)の警備を命ぜられた。
現地調査にあたった上山半右衛門、新渡戸十次郎(新渡戸稲造の父)は、仮想敵国ロシアは港から侵攻すると想定した陣を敷いた。津軽海峡を守る箱根元陣屋に主力を置き、絵鞆(室蘭市)に出張陣屋 (モロラン陣屋)を、長万部のこの地に屯所を、砂原には分屯所を設けることにした。
ヲシャマンベ陣屋は室蘭の出張陣屋 (モロラン陣屋)と同じく安政3年(1856)に構築されたが、安政4年(1857)12月長万部沿岸が砂原遠浅のため外国船が容易に近づけないことから南部藩は自藩に引き上げた。当地方における唯一の近世史跡として指定された。
『「現地説明板」、「モロラン陣屋跡説明板」、「室蘭民俗資料館内展示&印刷物」参照』

現況・登城記・感想等

空壕等かなりの遺構が残っているのに気が付かず、土塁下の案内板のところのみ見て帰ってしまった。非常に残念なことをした。
(1998/04/30)


ヲシャマンベ陣屋跡には、飯生神社が鎮座している。
ヲシャマンベ陣屋は本郭の周囲を土塁が巡っていたようである。
神社の建造や道路造成等により周囲の土塁は一部削られている(特に東側)が、多くの部分が残っている。特に、陣屋の西側半分の土塁はほとんど残っている。
中でも、神社の西側(陣屋北西部)には広い空地(本郭跡?)があり、それを取り囲む土塁はなかなか素晴らしい。土塁は2~3mほどであろうか。
また、南西部の土塁や空堀の光景は改変されているかもしれないが見応えがある。
また、その外側には水堀跡のようなのがあったが、これも往時のものかな?
(2007/09/09登城して)

ギャラリー

飯生(いいなり)神社「ヲシャマンベ陣屋跡」への石段
陣屋は、5mほどの小高い台地上にある。石段下の右側にTOP写真の石碑と説明板があり、左側には土塁と空堀が残っている。
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土塁と空堀
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飯生神社
陣屋跡には飯生神社が鎮座している。
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飯生神社西側(陣屋北西部)の非常に広い空地
この空地は非常に広く、周りを土塁が巡っている。
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土塁の高さは2~3mほどであろうか。
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陣屋南西部の土塁
陣屋南西部の土塁も残っているが、ここの土塁は北西部の土塁と較べると低く、内側は1m強である。
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陣屋南西部の土塁(外側から)
土塁や空堀の光景は、多少改変されているかもしれないが見応えがある。
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水堀跡
陣屋跡南西下の、この水堀は往時のものだろうか
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