主郭部下の腰曲輪
「樅の木は残った」で有名な伊達騒動のあった原田甲斐の城、仙台藩21要害の一つ
別名
柴田城、四保館、船岡要害
所在地
宮城県柴田町船岡館山(船岡城址公園)
【アクセス】
柴田町役場の西約400mほどにある山(船岡城址公園9が城跡で、公園東側から中腹まで車で上がれ、広い無料駐車場が完備されています。
柴田町役場:宮城県柴田郡柴田町船岡中央2丁目3-45、電話0224-55-2111
所要時間
駐車場から本丸まで約10分、今回の見学時間は約30分
形状
山城(標高136.5m、比高110m)
現状・遺構等
【現状】 船岡城址公園
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀、遺構案内板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2015/10/27
歴史等
船岡城の城主は柴田四郎と伝えられるのが最も古く、「吾妻鏡」には、正治2年(1200)に芝田次郎が幕府(鎌倉幕府)の命を受けた宮城家業に攻められ陥落したとあり、それ以前からあったと思われる。
柴田郡は戦国時代には伊達氏の所領となるが、船岡城の城主がはっきりするのは天文年間(1532~55)で、伊達稙宗の時に柴田氏の初代四保定朝が居城し、慶長年間(1596~1615)伊達政宗の代には屋代景頼が居城した。
元和元年(1615)伊達家家老の原田宗資が入城し、嗣子甲斐宗輔が寛文事件(伊達騒動)によって断絶するまで当地方を治めた。
寛文11年(1671)に起きた伊達騒動の首謀者の1人とされた原田甲斐は、伊達家家臣に惨殺され改易され、代わって天和元年(1681)、再び柴田氏が領主となり、代々居城し明治維新を迎えた。
『日本城郭大系3他参照』
現況・登城記・感想等
船岡城は、山頂に本丸が置かれ、その南に二の丸が続き、山の中腹に三の丸が置かれています。
船岡城といえば、NHK大河ドラマ「樅の木は残った」が思い出されますが、放映によって町の観光地となり公園化が進んで、三の丸周辺を中心にかなり改変されてしまったようです。
山頂部の本丸と二の丸には、各々の曲輪に付随する腰曲輪や段曲輪、切岸、土塁、空堀などが残っていますが、曲輪の配置などはよく分かりませんでした。
尚、本丸から見下ろす町並みと白石川、背後の山並みの眺望は素晴らしいです。
(2015/10/27登城して)
ギャラリー
【主郭部】
本丸は南側一段下の曲輪との2段からなり、南側の二の丸に繋がっています。主郭部の東下には腰曲輪が設けられています。
本丸を
本丸の南一段下の曲輪から本丸を撮ったものです。
本丸跡に建てられている平和観音像
本丸跡には台座を合わせると高さ24mの平和観音像が建てられています。柴田町に近づくと山の上に、この観音像が見えるので船岡城の位置がすぐ分かります。尚、以前は胎内に入ることが出来たそうですが、東日本大震災の影響で入れなくなったのだそうです。どうやら、その為の工事中のようでした。
本丸跡からの眺望
本丸から見下ろす町並みと白石川、背後の山並みの眺望は素晴らしいです。すぐ下に主郭部下の腰曲輪が見えます。
土塁
本丸南側一段下の曲輪の縁部の土塁です。
【二の丸】
二の丸は本丸の南側に位置し、東下に2段の腰曲輪が設けられています。
原田甲斐と柴田外記の供養塔
二の丸一段下の腰曲輪跡には「伊達騒動」で対立し、慙死した原田甲斐と柴田外記の供養塔が建てられています。寛文11年(1671)3月27日、伊達安芸の訴訟審理が酒井大老邸で行なわれ、その直後、原田甲斐が安芸を斬り、外記が甲斐を斬り、その間に酒井家中も出て乱闘の中で外記は重傷を負い、即日死にました。尚、外記のあとを継いだ柴田宗意は原田家改易後、船岡城に入城しました。
絹引の井戸
さらにもう一段下の腰曲輪には「絹引の井戸」というのが残っています。1190年頃の芝田氏が居住していた頃、この地に井戸を掘ったところ水の涸れることをしらず絹が出ました。貪欲なものが居て、馬の尾に絹を結び、2~300丈引き出したところで緑色の蛇が現れ、その後絹は出なくなりました。以来、絹引の井戸と伝えられています。
原田甲斐が居城の頃は、城中井戸として用いられていました。
【三の丸】
三の丸は、山の中腹部に削平された曲輪で、本丸との比高差は60mほどあります。公園化に伴い、かなり改変されてしまったようです。入口に模擬門が建てられています。