東面の土塁と堀
小野寺氏16代輝道の隠居の城、曲輪周囲を取り囲む土塁が良好に残る
別名
西法寺館
所在地
秋田県横手市平鹿町上吉田吉田
【アクセス】
西法寺の北が城跡
西法寺:横手市平鹿町上吉田吉田51、電話0182-24-0341
所要時間
今回の見学時間は17分
形状
平城
現状・遺構等
【現状】 史跡公園
【遺構等】 曲輪、土塁、堀、標柱、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2015/10/26
歴史等
小野寺氏16代輝道は、一時、一族の横手佐渡守(大和田光盛)に乗っ取られていた横手城の奪還に成功し、家督を義道に譲って吉田城に隠居した。
輝道が没後は輝道の末子棟道が城主となった。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で西軍に与した小野寺氏は改易となり、慶長7年(1602)に佐竹義宣が出羽に入部すると吉田城へは茂木監物が入ったが、元和元年(1615)、茂木氏は横手城へと移り、吉田城は廃城となった。
『日本城郭大系2参照』
現況・登城記・感想等
吉田城は、ほぼ方形の曲輪周囲を土塁と堀が取り囲む単郭の平城です。
土塁の長さは東西約120m、南北約100mあり、高さは城内側から約2m、堀底からは4m近くあり、土塁幅は底部で約6m、上部で約3mあります。
現在、南側の土塁の一部が西法寺の墓地などにより消滅していますが、他の三方は良好に残っています。
また、土塁の外側には、一部道路によって幅が狭くなっていますが、土塁に沿った幅6m~10mの堀が残っています。
(2015/10/26登城して)
ギャラリー
【曲輪】
吉田城は、ほぼ方形の曲輪周囲を土塁と堀が取り囲む単郭の平城で、土塁の長さは東西約120m、南北約100mほどあります。
【土塁】
曲輪の周囲を取り巻く土塁と堀は、南側の土塁の一部が西法寺の墓地などにより消滅していますが、他の三方は原形をほぼ留めています。
東側の土塁と堀(城外側から撮影)
土塁の高さは堀底からは4m近くあり、土塁幅は底部で約6m、上部で約3mあります。
東側の土塁(城内側から撮影)
土塁の高さは、城内側からは約2mほどです。
北側の土塁
西側の土塁
【櫓台】
土塁の4隅には物見櫓が配置されていたようで、北東隅、南東隅、南西隅の土塁(櫓台)は特に分厚く築かれています。
北東隅の櫓台
北東隅の櫓台上には祠が鎮座しています。
南東隅の櫓台
南東隅の櫓台が最も分厚く、突き出るように築かれています。
南西隅の櫓台
南側の土塁は、墓地の造成により破壊されていますが、南西隅の櫓台は良好に残り、櫓台上に墓が並び、城主一族の墓もあるようです。
【虎口】
曲輪への入城口は、北東隅と北西隅にあります。南側は、墓地の造成のため土塁が破壊されているので、虎口があったのかは分かりません。
北東隅の虎口と堀跡
曲輪内へは、この北東部と北西にある虎口、南側の西法寺(墓地建設により土塁が破壊)から入ることができます。城址碑が立っていますが、ここが往時の虎口かどうかは分かりません。右奥は、北東隅から西へ延びる堀の跡です。
北西隅の虎口
北西隅にも虎口があり、両側の土塁の外側には、藪で分かり辛くなっていますが堀跡も確認できます。