羽後 横手城(横手市)

今や横手市のシンボルとなった模擬天守

佐竹氏は一国一城令を実質的に無視し支城を、模擬天守も今や横手のシンボルに

別名

韮城、朝倉城、阿櫻城

所在地

秋田県横手市城山町

形状

平山城(標高121m、比高約60m)

現状・遺構等

【現状】 横手公園
【遺構等】 模擬天守、曲輪、腰曲輪、堀、土塁、登城道、碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2001/04/30
2015/10/26

歴史等

諸説あるが、横手城は室町時代の後期、出羽の豪族・小野寺氏16代輝道の頃に築かれたのが始まりといわれる。
小野寺氏16代輝道は、湯沢城を拠点に大曲城や角館城などを攻め落とし、大いに武威を張っていた。しかし、悪逆無道の振る舞いが多く、領内の人からは暗君として恐れられていた。そこで、小野寺氏の一族・横手佐渡守は輝道を除くため、兵を集め、天文21年(1552)7月、輝道を討ち取った。
しかし、羽黒山に潜んでいた輝道の遺児・四郎丸(のちの景道)が、羽黒山の山伏の協力を得て兵を挙げた。そして、佐渡守の下剋上を快く思っていなかった小野寺氏の旧臣も馳せ参じ、佐渡守は討ち取られた。
合戦後、四郎丸は横手に居を構えたので、横手城が小野寺氏の本拠となった。
(佐渡守に殺害されたのは輝道の父雅道で、その仇を討ったのが輝道であるという説もある)
しかし、関ヶ原合戦で城主・小野寺義道は、徳川家康に西軍方とみなされ、慶長6年(1601)に改易された。
慶長2年(1602)、秋田に佐竹氏が転封されてきた。佐竹氏は一国一城令を実質的に無視し、横手城を改築して佐竹一門の戸村氏などを城代(所預)として任命、配置した。石垣を用いず、代わりに斜面に敵兵が滑ってよじ登れないように韮(ニラ)を植えたため、韮城とも呼ばれた。
江戸時代末期、戊辰戦争の際には、東北地方では佐竹氏は孤軍官軍側についた。仙台藩、庄内藩の軍勢が戸村大学が籠城する横手城を攻撃し、1868年8月11日の夕方、落城し、廃墟となった。
本来横手城に天守閣はなかったが、昭和に入り、太平洋戦争後、郷土資料館と展望台として模擬天守閣が建築された。ところが横手音頭に歌われたり、かまくら祭りなどの写真に度々登場したことから、すっかり天守閣は横手のシンボルとなった。

『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「日本城郭大系2」他参照』

現況・登城記・感想等

横手城跡は、現在、横手公園として整備され、本丸跡には秋田神社が祀られ、二ノ丸跡には模擬天守が建築されています。本丸と二の丸の間には武者溜まりと呼ばれる曲輪が置かれています。
横手城天守は、模擬天守の中でも初期のものなので石垣なども含めてチャチですが、今ではすっかり横手市のシンボルとなっているようです。
横手城に限らず山城や平山城の模擬天守って、山麓から見上げると、結構絵になります。前回(2001/04/30)訪れた時に山麓(国道13号線)から見上げた天守の姿が何ともかっこよかった記憶があります。そこで、今回は、その写真を撮りたいと思っていたのですが、行程の関係で今回も撮れませんでした(/。ヽ)。
(2015/10/26登城して)

ギャラリー

横手城案内図(現地案内板より)
横手城跡は、現在、横手公園として整備され、本丸跡には秋田神社が祀られ、二ノ丸跡には模擬天守が建築されています。本丸と二の丸の間には武者溜まりと呼ばれる曲輪が置かれています。
横手城

武者溜り
横手城跡は、本丸と二の丸間の鞍部の平坦地の武者溜り跡まで車で登って来ることができます。写真奥の模擬天守が建つところが二の丸跡です。
武者溜り

大手門跡
本丸北側の武者溜の脇に大手門が位置しますが、佐竹氏による築城替え前までは、本丸南側にあったようです。
大手門跡

本丸を
武者溜りから撮ったものです。
本丸を

本丸
本丸上には秋田神社が鎮座しています。特に、これといって見どころもありません。
本丸跡

二の丸へ向かう
模擬天守が建てられている二の丸へ登って行きます。
二の丸へ

二の丸跡
二の丸は本丸より広いです。中央に「小野寺氏顕彰碑」が立てられています。秋田県南部地方は、やっぱり佐竹氏より小野寺氏のようですね。
二の丸跡

二の丸跡から模擬天守を
模擬天守は二の丸の南端部に建てられています。
二の丸

模擬天守
模擬天守は全国に多く建てられ、最近のものはかなりリアルなものが多いですが、横手城が建てられたのは1965年と、かなり初期のもので石垣が何ともチャチです。
模擬天守

武者溜りからの眺望
模擬天守の是非は兎も角、さすがに城です。眼下に広がる景色は素晴らしいですね。
眺望

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