羽後 増田城(横手市)

増田小学校の東側に残る土塁と説明板

三又城より移住した小笠原氏が築いた平城、主郭を取囲む土塁の一部が残る

別名

土肥城、土肥館

所在地

秋田県横手市増田町増田土肥館141、増田小学校
【アクセス】
増田小学校」が城跡で、小学校の東側から南東にかけて土塁が残り説明板が立っています。駐車場はありません。
増田小学校:横手市増田町増田土肥館141、0182-45-2014

形状

平城

現状・遺構等

【現状】 増田小学校
【遺構等】 土塁、標柱、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2015/10/26

歴史等

増田城は、貞治年間(1362~67)に三又城より小笠原義冬が当地に移住してきて築城したといわれている。
永享年間(1429~41)、光冬の代に小野寺氏に敗れ楢岡城(大仙市)に移り、その後まもなく亀岡城(湯沢市川連町)から小野寺家家臣の土肥氏が入城した。
土肥氏は関ケ原合戦(1600)まで城主として居城し、合戦後の慶長7年(1602)には、佐竹氏の秋田国替えにともなって、佐竹義賢(佐竹東家)が一時城代となった。
増田城が廃城となった年代は不明であるが、豊臣秀吉の廃城命令でも免れ、江戸幕府の「一国一城令」などによって廃城となるまで しばらく存続したとみられている。
『「日本城郭大系2」、「現地説明板」より』

現況・登城記・感想等

増田城は、主郭部分が東西約200m、南北約300mの長方形で、その周囲に土塁をめぐらし、その外側に幅約6~10m(南側が10m、他の三方は6m)の内堀があり、さらにその外側に外堀があったようです。
現在は、小学校の建設により、その多くが破壊されていますが、小学校の東側から南東にかけて底部幅約6m、高さ1.5mほどの土塁が残っています。
また、小学校の北西にも一部土塁(櫓台?)が残り、築城の際に生贄にした愛娘を弔うために植えたという二本杉が聳えています。
(2015/10/26訪れて)

ギャラリー

東側の土塁
外側から撮ったものです。写真右側の道路は内堀跡でしょうね。
東側土塁

北東部の土塁と説明板
東側の土塁の中央辺りに小学校の東門があり、その脇に説明板が立っています。東門両側の土塁は、東門から内側へ折れています。恐らく東虎口でしょう。
北東部土塁

南東部の土塁
東側の土塁は南へ延び、そこから右(西)へ曲がっています。
南東の土塁

北西部の土塁と二本杉
小学校の北西角にも土塁の一部が残り、別名「土肥城址」と書かれた古い標柱が立っています。土塁には二本杉が聳えています。二本杉は小笠原義冬が築城の際に、城の堅固と武運長久を祈って、愛娘と牛を人柱の犠牲にしたと云われ、その霊を弔うために二本の杉を植えたものと伝えられ、樹齢630年以上だそうです。
北西の土塁

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント