東側の土塁と北東隅の模擬櫓
武藤氏の一族とされる砂越氏の城、本家との争乱も度々
所在地
酒田市砂越字楯之内、砂越城跡本丸公園(長応寺の北西)
長応寺:砂越字楯之内212、電話0234-52-3120
形状
平城
現状・遺構等
現状:砂越城跡本丸公園
遺構等:曲輪、土塁、水堀、模擬櫓、模擬木橋、案内板、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2008/05/20
歴史等
砂越城(さごしじょう)は、久寿元年(1154)、播磨の豪族赤松氏の三男石黒氏が築いたもので、東西670m、
南北435mの方形の城である。
文治5年(1189)源頼朝が奥州平泉の藤原泰衡を滅ぼし、8月吉書始めに砂越氏を出羽の郡司に任じた。砂越氏は、初め政所(現酒田市政所)
において政務を執ったが、程なく砂越城に入り居城とした。
嘉吉3年(1443)、砂越氏信は戦いに敗れ落城、これより斯波家氏の4代矢口氏益が城主となった。
文明10年(1478)、氏雄に至り、室町幕府9代将軍足利義尚に直礼し、信濃守に任官され、飽海3万石を受けた。しかし、永正10年
(1513)大宝寺の武藤氏の攻撃で氏雄が討死した。
永正15年(1518)大宝寺武藤氏の舎弟氏維が砂越城に入り名代となった。
天文元年(1531)には、大宝寺武藤氏の請により藤島城の土佐林氏を討ち、
次いで大宝寺城の武藤氏を尾浦城に追い、
北は女鹿から南は荒谷まで、庄内は砂越氏の版図となった。
天正16年(1587)千安の役にあたり、敗れて、城を開き、安東秋田氏に身を寄せることとなった。後に、上杉の臣荒川玄蕃が城代となった。
慶長6年(1601)の庄内関ヶ原合戦で、城・城下町ともに炎上し、後に、最上氏の臣荒井右衛門が城代となったが、元和2年(1616)
に廃城となり、本丸の土塁・堀を盛地とした。
元禄7年(1694)諏訪神社を本丸跡に再建し、現在に至る。
『現地資料館説明板他より』
現況・登城記・感想等
砂越(さごし)城址の本丸跡には、諏訪神社が鎮座し、周囲を巡る土塁がよく残っている。
土塁北東隅には模擬櫓が建てられている。これは、平成5年に逆井城の井楼櫓を参考に建てられたものだという。
また、東側土塁外側には水堀跡も残っている。水堀の北には模擬木橋も架けられている。
南東隅には、資料館があったが、閉まっていた。様子を見たところ、ほとんど開いてないのではと思われた。
(2008/05/20登城して)
ギャラリー
砂越城跡本丸公園の案内板
最初、西南角にあるこの大きな案内板を見つけ、この鎮守の森が砂越城跡だと気付くだろう。
本丸周囲を巡る土塁
本丸周囲をめぐる土塁が良好に残っている。
東側の土塁
東側の土塁は幅も広く、なかなか見応えがある。この土塁右側(外側)には水堀も残っている。土塁奥(北東隅)
には模擬櫓が建っている。
北側土塁(外側から撮影)
東から西へと続く、北側の土塁もなかなか見応えがある。
水堀
東側には水堀跡も残っており、北(奥)の方には木橋も架かっている。
㊧櫓、㊨木橋
土塁北東隅には模擬櫓が建てられている。これは、平成5年に逆井城の井楼櫓を参考に建てられたものだという。
水堀の北の方には木橋が架かっている。木橋を渡ると、冠木門もある。
諏訪神社
本丸跡には諏訪神社が鎮座している。北側が入口となっているが、この門柱の表札が確か「小野寺」
となっていたが、秋田県南を凌駕した小野寺氏の末裔だろうか?などと考えたりして・・・!?。
資料館
南東隅には、資料館があったが、閉まっていた。様子を見たところ、ほとんど開いてないのではと思われた。