羽前 尾浦城(鶴岡市)

本丸跡に鎮座する神社

庄内の豪族武藤氏が大宝寺城より移り本拠とした城

別名

大山城

所在地

山形県鶴岡市大山3丁目、大山公園

形状

山城

現状・遺構等

現状:大山公園(山林)
遺構等:曲輪、土塁、石碑、尾浦城主武藤家遺蹟塔由来の碑等

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2008/05/20

歴史等

大山の地は、古来尾浦といい、武藤氏の領地であった。武藤氏は初め、大宝寺城に居住し、 庄内地方に威を振るっていたが、天文元年(1532)に庶族砂越氏の攻撃に遭い高館山山系の要害大平山の地に尾浦城を築き移り、 大宝寺城には城代を置いた。以来、武藤氏は尾浦城を本拠として領内を統一し、19代義氏の全盛期に至った。
義氏は豪勇にして乱行も多く、内政を省みず合戦に明け暮れ、「悪屋形」と呼ばれたという。そして、遂には家臣・前森蔵人(後に東禅寺義長) の謀反により自害した。
その後、義氏の弟義興が後を継ぎ、上杉景勝麾下の本城繁長と結んだが、天正15年(1587)に最上義光が尾浦城を攻略し、 いったん庄内は最上氏の手に落ちた。
しかし、その翌年上杉景勝の後援を得た本庄繁長とその子義勝が庄内に侵攻して、最上軍を* 十五里原合戦で破ったが、このとき尾浦城も兵火にかかり灰燼に帰した。
その後、武藤氏を繁長の子義勝が継いで再興した。
しかし、秀吉の奥州仕置後に本庄繁長・義勝父子は一揆扇動の嫌疑をかけられ大和に配流され、庄内は上杉氏の所領となって尾浦城も再建された。
しかし、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の折り、最上氏と上杉氏との戦いの中でまたも兵火にかかった。戦後、最上領となり大山城と改称し、 居館が山麓に移されるが、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった。
『現地尾浦城主武藤家遺蹟塔由来の碑ほか参照』


*十五里原合戦
翌天正16年(1588)、本庄繁長・ 義勝父子は庄内地方へ侵攻した。本庄勢は菅野代館や関根城・清水城をはじめ諸城を次々と落とし、尾浦城に迫った。 これに対し東禅寺義長は弟の東禅寺勝正を総大将として迎撃させ、尾浦城下の十五里ヶ原で両軍は激突した。 しかし数で劣る東禅寺勢は苦戦を強いられ、結果東禅寺勢は敗走した。その最中、勝正は自ら本庄勢に斬込み、 繁長に一太刀浴びせたが目的を達せずに最期を遂げた。
合戦後、義勝は義興の跡を継ぎ武藤氏を再興したが、天正19年(1589)、一揆煽動の嫌疑をかけられ、 豊臣秀吉の命により大和国へ配流された。

現況・登城記・感想等

尾浦城址は大山公園となり、山中を遊歩道と車道が巡っている。巡っているというよりも、あまりにも道が多く、 錯綜していて一体何処を廻っているのか分からなくなってしまった。
山中には、曲輪や、腰曲輪のような削平地が一杯ある。また、小さな丘の頂上部の削平地もいくつもあり、本丸がどれか全く分からなかったが、 明確に残る土塁を見つけた。
どの削平地も周りは急崖で、また眺望も素晴らしく、往時は敵の攻撃に備えるのに適した地であったのがよく分かる。
高館山・大平山の山頂への分岐点に「尾浦城主武藤家遺蹟塔」が建ち、その前に「尾浦城主武藤家遺蹟塔由来の碑」があったが、 一般的にこの種の碑は、やたらと先人を誉めまくっているのに、内容を読むと、誉め言葉がほとんどなく、「暴政」だの「悪屋形」 だのという言葉が多く見られるのには驚いたというか面白い。
どこにも城址遺構等の案内板は無かったが、削平地全てに歌碑が立っていた。この辺りにはゆかりに歌人の方が多くいるのだろうか? それにしても多少の案内板も欲しいところだ・・・!
(2008/05/20登城して)

ギャラリー

大山公園案内図       ~クリックにて拡大画面に~
尾浦城址は大山公園となり、山中を遊歩道と車道が巡っている。巡っているというよりも、あまりにも道が多く、 錯綜していて一体何処を廻っているのか分からなくなってしまった。後で気がついたが、案内図には、左上に「尾浦城址」があり、 三吉神社の所に「大平山・城山」とあり、「武藤氏本丸跡」というのがあるが、どうなってるんだろう?「尾浦城址」とあるのが、 武藤氏時代の山城で、三吉神社付近は、江戸期に入って最上氏時代の大山城ということになるのだろうか??

山麓から
大山公園の山麓に駐車場があり、大山公園の案内図がある。その手前にには松の木とその下に「尾浦城址」 と彫られた石碑がある。背後の山が尾浦城址である。

尾浦城主武藤家遺蹟塔(奥と右写真)&尾浦城主武藤家遺蹟塔由来の碑(手前)
高館山・大平山の山頂への分岐点に「尾浦城主武藤家遺蹟塔」が建ち、その前に 「尾浦城主武藤家遺蹟塔由来の碑」があったが、一般的にこの種の碑は、やたらと先人を誉めまくっているのに、内容を読むと、 誉め言葉がほとんどなく、「暴政」だの「悪屋形」だのという言葉が多く見られるのには驚いたというか面白い。この左側にあった登山道が、 武藤氏時代の尾浦城址への道だったらしい。
 

広い曲輪跡?
上写真の石碑のすぐの所に、この広い削平地があったが、曲輪跡であろう。ただ、あまりにも広く、 おそらく公園築造時にかなり改変されていることであろう。ここには展望台が設けられ、眺望はなかなかのものだ。また、 この一段高い所にも曲輪があり、古峯神社が祀られていた。少し下には、腰曲輪がいくつかあった。
 

腰曲輪
腰曲輪が一杯残っており、そのどこにも歌碑があったが、よくは見なかった。 この辺りにゆかりの歌人の方が多くいるのだろうか?
 

腰曲輪と眺望
どの曲輪も周りは急崖で、また眺望も素晴らしく、 往時は敵の攻撃に備えるのに適した地であったのがよく分かる。すぐ下に腰曲輪も見える。

本丸?
小さな丘の頂上部があり、そこにも削平地がいくつもあり、本丸がどれか全く分からなかった。 ここには明確な土塁(神社奥)が残っていた。多分、ここが本丸跡であろう!?案内板が欲しいところだ!!

土塁(上写真の左の土塁)

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コメント

中村貴(2010/01/01)

 尾浦が生まれの者です。太平山の城としての評価を初めて知りました。ありがとうございます。
 城址とは知りながらも、子供の頃に、あそび場としてきた者にとって、目からウロコでした。自然、景観、そして人情、まことに良き故郷です。外の方が、率直に思っていただいたことを素直に受け入れる心こそ、尾浦の心根かと思います。
 また、案内がないという指摘は、都合よく解釈させてもらいます。曰く、「いい山城の城址なのに、郷土の人たちが、郷土を愛する気持ちが薄い。怠慢だよ」と。
 次は、是非、尾浦城の図面探しに、お手を貸してください。
 
 

タクジロー(2010/01/02)

中村貴さま
御訪問戴き、またコメント戴きありがとうございます。
曲輪跡がかなり多く残っているので、ちょっとした案内板があると有難いですね。
尾浦城址と武藤氏本丸跡が別の山になっていたのですが、その関係が最後まで分かりませんでした。
私が廻ったのは武藤氏本丸跡を中心とする公園だったようで、尾浦城址となっている別の山へも登れば分かったのかもしれません。
また、時々訪問下さい。

(2011/10/04)

武藤家末裔は、いま山形にて某運送会社の代表をされていますね。

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