梁川小学校校庭の東側に残る本丸庭園と石垣
鎌倉時代、伊達氏により築城、伊達氏の奥州統治の中枢を占めた
所在地
福島県伊達市梁川町字鶴ヶ岡1(梁川小学校他)
現在、梁川小学校は2011年3月11日の東日本大震災による被災で2015年に伊達市梁川町北本町21−1へ移転新築
形状
平山城
現状・遺構等
【現状】梁川中学校、梁川高校、浅間神社、宅地等
【遺構等】復元本丸庭園、土塁、石垣、空堀、城址碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2007/08/14
歴史等
梁川城は、伊達氏によって、鎌倉時代に築城されたとみられ、14世紀末の大膳大夫政宗の頃には、本城として使用されていた可能性がある。以後伊達氏は室町幕府との関係を深めつつ勢力を拡大し、大永3年(1523)には稙宗が陸奥国守護に補任され、梁川城は奥州の政治的中枢を占めるにいたった。
天文元年(1532)稙宗が本拠を桑折西山城に移してからは、伊達領国の重要な支城となった。
小田原の役後の天正18年(1590)には蒲生氏の支城、慶長3年(1598)には上杉氏の支城となり、その後寛文4年(1664)廃城とされたが、文化4年(1807)から文政4年(1821)の間は松前章広の本拠地となった。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
本丸跡には梁川小学校(2015年3月に1kmほど離れた梁川町北本町に移転)が建ち、本丸の東側と南側の二の丸のうち、東二の丸跡は浅間神社と梁川幼稚園と梁川中学校、南二の丸跡は梁川高校などとなり、さらに北側と西側の三ノ丸跡はほとんどが宅地化され、往時を偲ぶには及びもないが、この一帯は高台となっており築城の好適地であるのが分かる。
本丸跡の梁川小学校は一段高い高台上にあり、校庭奥(東側)には本丸庭園(心字の池)が復元され、その背後には櫓台の石垣が見える。
また、近くの道沿いには上杉氏時代の大手門跡や松前藩時代の大手門跡の案内板が設置されていた。
さらに、梁川中学の近く(阿武隈急行線路脇) には明らかに堀跡であろうと思われる窪地があった。
(2007/08/14登城して) ~2021/12/15修正~
*尚、2011年の東日本大震災で小学校をはじめ多くが倒壊したのを機に多くの遺構が発掘調査されたようで、再登城する価値があるかも。
ギャラリー
本丸跡(梁川小学校)
校庭東側(写真奥)には、本丸庭園
現在、梁川小学校は2011年3月11日の東日本大震災による被災で2015年に伊達市梁川町北本町21−1へ移転新築した。梁川小学校敷地については、福島県の史跡及び名勝の指定を受け、その景観も含めて後世に残していくこととするとのこと。また、敷地の多くが発掘調査されたようである。
本丸庭園
昭和53年~56年(1978~1981)にかけて、本丸跡である梁川小学校校庭の一角に中世の庭園「心字の池」が復元されている。
これは東日本で唯一の中世庭園と言われている。
庭園の背後には櫓台石垣が残っている
本丸切岸
本丸跡の梁川小学校は一段高い高台上にある。この上が本丸跡(梁川小学校)である。
上杉氏時代の大手門跡
梁川城の大手門は、伊達氏時代は北町頭(本丸の北東400mほど)方面であった。その後、城の整備が進み、上杉氏時代には右城町(本丸の西250mほど)のカギ型小路を通り、この小学校の裏門となっている北側(三の丸側)が大手門となった。当時の絵図によると、石垣の上に槍門が築かれ、戦いに備えた堅固な大手門であった。(現地説明板より)
松前藩時代の大手門跡
江戸時代の文化4年(1809)から梁川を治めた松前藩は、旧城跡に新しく城を築いた。当時の大手口は常福寺の脇を通り、この坂から本丸へ向かった所に朱塗りの大手門があった。昭和54年の発掘調査により、その礎石群が見付かった。(現地説明板より)