本丸跡にたつ城址碑
伊達氏初代より360年の本拠?or14代稙宗が梁川より移り本拠に?
読み方
こおりにしやまじょう
別名
高館城
所在地
福島県伊達郡桑折町万正寺(観音寺の裏山)
観音寺:電話024-582-3072
形状
山城
現状・遺構等
【現状】山林
【遺構等】曲輪、土塁、空堀、石垣、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2007/08/14
歴史等
桑折西山城は、文治五年(1189)伊達朝宗が、源頼朝の平泉藤原氏征伐の軍に従って功をたて、恩賞として伊達郡を得て、常陸国伊佐から移り、天然の要害を利用して山城を構えた。第1代朝宗以来、第15代晴宗が米沢城に移るまでの約360年間伊達氏の本拠地であった。
この間、南北朝時代の城主は、郷土の士を率いて、北畠顕家と共に各地に転戦した。また、室町時代には勢を拡張し、奥州探題守護職として広域にわたり軍事行政の実権を握った。
『現地本丸跡説明板より』
現地本丸跡説明板によると以上のようになっているが、最近の調査では、3代義広から梁川城(伊達市梁川町)を本城とし、14代稙宗が天文元年(1532)に本拠をこの桑折西山城に移したとされるようである。
尚、初代朝宗は、頼朝より伊達を恩賞として与えられた時に伊達氏を称したが、伊達は古くは「イダテ」と読み、のち「ダテ」に転化したとされる。政宗時代でも古式にのっとった称号は「イダテ」を用いたようである。また、朝宗の本領は常陸国伊佐庄中村(茨城県下館市中村)にあったので、当時は伊佐氏または中村氏を名乗っていたとのことである。
砲台場跡の説明板にも、これと同じく室町時代の築城で、稙宗・晴宗の居城と記されていた。(同じ城址の説明板に2説とは不可解なり~???)
『歴史と旅・戦国大名総覧(秋田書店刊)」参照』
現況・登城記・感想等
登城前、この城址には大いに期待していた。
観音寺のある人里のすぐ裏山が城跡であるが、登城道にいきなり「熊出没注意」の標識があったのには参った。一瞬登城するかどうか迷ったが、登城道は鬱蒼とした木々に覆われた暗い道ではあるが、舗装はされていないものの車の轍まである。大丈夫だろうという結論でLet’s Go!
観音寺から10分程登ると土塁が見え、大手門跡となる。その右手上の一段高い曲輪が砲台場跡で、土塁が残っている。この下には帯曲輪があるようだが、藪がひどくとても入って行けない。
ここから本丸へは、またまた真夏の炎天下の登城。道の周りは草茫々!!
それにしても暑い!!こんなに暑くちゃ、熊も出ては来ないだろう。
そして、やっと本丸に辿り着くと本丸跡隅に説明付きの城址碑と標柱があったが、本丸跡は一面草茫々で、とても中へは入って行く勇気はない(/。ヽ)。
尚、本丸周辺より中館や西館の方が良好な遺構が残っているようだが、もうここでギブアップ!!
やっぱり、山城は真夏に来るべきではないと、いつものことながら懲りない自分がいました・・・・・・・(汗)。
(2007/08/14登城して)
ギャラリー
登城道
登城道にいきなり「熊出没注意」 の標識があったのには参った。一瞬登城するかどうか迷った。登城道は鬱蒼とした木々の中の暗い道ではあるが、舗装はされていないものの車の轍まである。大丈夫だろうという結論でGo!
砲台場曲輪下の帯曲輪
下には帯曲輪があるようだが、藪がひどくとても降りて行けそうにない。
本丸へ延びる道
ここから本丸へは、またまた真夏の炎天下の登城。道の周りは草茫々!!それにしても暑い!!こんなに暑くちゃ、熊も出ては来ないだろう。
本丸跡
やっと本丸に辿り着くと説明付きの石碑があったが、ここも一面草茫々でとても中へは入って行けない。やっぱり山城は真夏に来るべきではないと、いつものことながら懲りない自分がいました・・・(汗)。