岩代 大里城(天栄村)

本丸跡に立つ城址碑

伊達政宗の軍勢の攻撃にも落城しなかった須賀川二階堂氏の支城

別名

牛ケ城

所在地

福島県岩瀬郡天栄村大字大里字向館(武隈神社裏山)

形状

山城

現状・遺構等

現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、空堀、標柱、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2008/09/30

歴史等

大里城(別名:牛ケ城)は、室町時代に築かれた山城で、須賀川二階堂家の家臣・矢田野安房守が守っていた。
天正18年(1590)、伊達政宗の軍勢に攻められ一戦を交えた。
大里城西南の関場山に政宗の右腕・片倉小十郎の指揮する大軍が、南東方向の羽黒山には石川昭光率いる軍が陣取り、 大里城目がけての激しい攻撃をした。
一方、耐え守る大里勢は本丸に城代家老桑名因幡をはじめとして、一騎当千の兵たちが二の丸、三の丸でも敢然と立ちはだかり、 勇猛果敢且つ頭脳的戦略で落城しなかった。
これにより、大里城は、のちのちの世まで難攻不落の名城と云われ、その名は近隣に聞こえ、数々の武勇伝も残した。
『現地登城口説明板より』

現況・登城記・感想等

武隈神社の裏山が大里城址である。国道294号線と県道282号線の交わる交差点のすぐ北の西側に登城口があり、 説明板が設置されている。
幸い、近い内に祭があるらしく、登城道の草が綺麗に刈られていたので助かった。
登城口から頂上部の本丸跡までは、山城らしい曲がりくねった道を登って行く。登り始めて、しばらくすると正面に本丸の切岸が見えてきて、 5~6分ほどで頂上部の本丸・二の丸間の虎口へと出る。
虎口の右側が本丸で、左側は二の丸である。そこをさらに奥へと行く道(多分三の丸、四の丸へと続くのだろう)があったが、時間の関係で、 そこまでにした。
本丸はかなりの広さである。二の丸は狭く、周りは絶壁になっており、「難攻不落の名城」と云われたのもうなずける。本丸(虎口) 側には低いが土塁跡のようなのがあったが・・・?
高台にあるが、木々に遮られ眺望はあまりよくなく、二の丸の南方面だけが開けている。
取り立てて見どころのある城址ではないようだった。
(2008/09/25登城して)

ギャラリー

登城口
国道294号線と県道282号線の交わる交差点のすぐ北の西側に登城口があり、説明板が設置されている。 この登城道を見て、ちょっと期待したが・・・。

登城道
山城らしい曲がりくねった道を登って行く。

本丸切岸
登り始めて、しばらくすると正面に本丸の切岸が見える

㊧本丸への階段と虎口
㊧最後の登り道を登りきると、㊨本丸と二の丸の間の虎口(右)へと出る。奥が本丸、手前に二の丸がある。 写真奥には三の丸、四の丸への道が続いている。
 

本丸
本丸は結構広く、道よりやや高い。

二の丸
二の丸は狭く、周りは絶壁になっており、「難攻不落の名城」と云われたのもうなずける。本丸(虎口) 側には低いが土塁跡のようなのがあるが・・・?

二の丸から南方面の眺望
高台にあるが、木々に遮られ眺望はあまりよくなく、二の丸の南方面だけが開けている。

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コメント

S.YAMADA(2012/01/11)

タクジロー 様

新年を迎えまた新しい城址、仏閣等探索される事とご推察申し上げます。  さて、偶然にも我が故郷大里が出ているのにビックリしてコメントをしたためております。  武隈神社は幼少の頃から遊び場で宮司も大谷家と私のうちが代々受け継いでいました。
旧大谷村(現在の大信の一部)大里村、広戸、牧の内、湯本が合併して天栄村となり近隣にない大きな村になったのが昭和28年頃で大里村の役場が畑田にありましたね。
最後の写真にある羽黒山は古墳ではないかと学識経験者等が調査中でもあります。 実家はこの山の向こう側になりますけどホントに懐かしい光景です。 今後とも全国各地の状況をご披露いただきたいと思います。  

タクジロー(2012/01/12)

S.YAMADAさま
当サイトへのご訪問とコメント、ありがとうございます。
当城址へは、駐車場所に困り、山麓の登城口手前に車を置いて大急ぎで登ったので、三の丸や四の丸方面へ行ってないので、機会があればまた登城したいものです。
またのご訪問とコメントをお待ち申し上げます。

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