岩代 長沼城(須賀川市)

城址登城口

芦名・伊達・二階堂氏攻防の城、秀吉の奥州仕置後、蒲生・上杉氏の支城に

別名

千世城、牛臥城、千代牛臥城

所在地

福島県須賀川市長沼字殿町(長沼小学校の背後の山)山麓に無料駐車場あり
長沼小学校:長沼字殿町85、電話0248-67-2155

形状

平山城

現状・遺構

現状:公園
遺構等:曲輪、土塁、石垣、空堀、堀切、石碑、標柱、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2008/09/30

歴史等

長沼は常陸から会津に抜ける茨城街道の要衝にあたる。長沼氏が、この地に初めて築城したのは、文応元年(1260)或いは、 一説に南北朝時代ともいうが、明らかではない。
天文10年(1541)に芦名盛舜がこれを支配下におさめ、城地を大改修して黒川城 (のちの会津若松城)の支城にした。
その後、ことに永禄3年(1560)頃より、長沼をめぐる南奥州の戦国大名、伊達氏・二階堂氏・芦名氏の激突が続いた。遂に、永禄9年 (1566)芦名領となり、芦名盛氏の家臣・新国貞通の守城となった。以後、長沼城は、芦名氏の会津防衛及び仙道(現在の福島県中通り) 攻略の拠点となった。
しかし、天正17年(1589)の摺上原の戦いに快勝した伊達政宗は、勢いに乗じて芦名氏の本拠黒川城に迫るとともに、 周辺の支城を次々と陥れた。長沼城もその1つであった。そして、芦名氏の滅亡後、新国貞通も伊達氏に服属した。
しかし、天正18年(1590)の豊臣秀吉の奥州仕置により貞通は領地を没収され、会津の地は蒲生氏郷領となり、 長沼城は支城として蒲生郷安、蒲生郷貞が城代として入った。
慶長3年(1598)に上杉景勝が会津に封ぜられると信濃長沼城より島津忠直が城代として入った。
同5年(1600)の関ヶ原合戦には長沼城が上杉軍の前線基地となっている。
慶長8年(1603)再び蒲生秀行が封ぜられると蒲生郷治、玉井数馬介が城代となったが、元和元年(1615) の一国一城令により廃城となり、寛永3年(1626)には破却された。
『「現地説明板」、「歴史読本 織田・豊臣の城を歩く(新人物往来社刊)」、「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」より』

現況・登城記・感想等

長沼城は、頂上部の本丸を中心に、二の丸、三の丸を配置し、さらに山麓にも多くの腰曲輪を配置している典型的な平山城だ。
各曲輪等遺構もよく残り、腰曲輪から見上げる本丸や二の丸の高い切岸がかっこいい。
城郭の全体像も掴みやすく、城郭全てを見て廻りたかったが、小学校や稲荷神社側は、草が刈られ、よく整備されているものの、 反対側の曲輪等は雑草が伸び放題の藪でとても入って行けそうになかったのは残念!少し入って行っただけで、薮蚊の攻撃で散々な目にあった (泣)!”
本丸には打ち込みハギの石垣が残っているが、他の蒲生氏関連の城の石垣のような優美さが感じられなかった。「歴史と旅・日本城郭総覧 (秋田書店刊)」の中で、中井均氏も語っているように、上杉氏時代の石垣であろうか?
枯れ草の季節に来れば、かなり見応えのある城であろうし、勿論、整備が終わったら素晴らしい城址公園になることだろう。期待してます!!
(2008/09/25登城して)

ギャラリー

登城口
表紙写真を奥へ入ってくると、説明板が設置されたこの登城口がある。

三の丸
右の切岸上が本丸、左が腰曲輪。この高い切岸が何ともかっこいい。写真左へ出っ張った腰曲輪の横(左側) を通って入って行く。

腰曲輪①
左が本丸・二の丸下の腰曲輪、右上(坂道を登ったところ)が本丸。腰曲輪と言えども、 写真奥の方へと広くなっており、本丸並みの広さである。

腰曲輪②
上写真を奥へ入ってくると、この広い腰曲輪へと出る。 右切岸上が二の丸

堀切
上写真の腰曲輪をさらに置くへと進むと、この堀切と云うか、山裾へと落ちている竪堀へと出る。 この先にも曲輪があるようだが、強烈な藪で進入は諦めた(泣)。

二の丸
腰曲輪の上は二の丸であるが、何せこの強烈な藪。とても入って行く勇気はなかった。マムシも怖いし、薮蚊の注射攻撃も嫌だ~!

本丸石垣を(二の丸から)
二の丸は本丸奥にあり、本丸より一段下にある。藪の中をちょっと無理して、少しだけ二の丸内へ入って、 本丸石垣を撮った。修築中のようであるが、二の丸が整備されたら、是非再登城して見てみたいものだ。

本丸
本丸には稲荷社が建てられているが、何ともボロッチイ建物で最初は工事中の掘立小屋かと思った。もう少し、 綺麗な小屋にするとか、何とかならないものだろうか?

稲荷社裏の石垣①
稲荷社の裏には、土塁石垣がめぐっている。このボロッチイ小屋のため石垣の写真が撮り辛いし、 石垣が映えない!この写真じゃ。小屋の裏の石垣がよく見えない(怒)。「罰当たり目」と言われるかもね!

稲荷社裏の石垣②
おかげで、石垣の写真は、このように一部だけを撮るはめになる。

櫓跡
本丸南澄の出っ張った場所に東屋が建てられている。多分、往時は、 物見櫓か何らかの建物が建っていたことだろう。あしかし、今は木々に遮られて眺望は決してよくない。

本丸からの眺望
長沼城は高台にあるが、木々に遮られて、どこからも特別眺望はよくないが、 木々の間から所々開けている所がある、この写真は、上の東屋の少し北側から撮ったもの。

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