高層ビル群に囲まれた砲台跡に設置された説明板
幕末に江戸防衛・海防策の一環で品川台場等に続いて築かれた砲台
所在地
東京都中央区月島 1丁目1・2・13・14番地域
形状
台場
現状・遺構等
【現状】 市街地
【遺構等】 説明板
満足度
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歴史等
江戸時代末期、佃島 の南に位置するこの場所には、外国船の渡来に対処するための海防施設「砲台 」が築かれました。
江戸防衛・海防策の一環で砲台が築造されたのは、嘉永6(1853)年6月にアメリカ東インド艦隊司令長官ペリー が4隻の軍艦を率いて浦賀に来航し、日本の開国・貿易港の開港などを求めた出来事が契機でした。ペリー来航から2か月後の同年8月、幕府は非常事態に備えて品川沖に江戸防衛用の台場 (砲台)築造を始め、翌年11月までの短期間に第一・第二・第三・第五・第六の5基(品川台場)と御殿山下台場を完成させました。
佃島の南に砲台が築かれたのは、品川台場の築造から約10年後の元治元年(1864)のことでした。砲台新設の契機となったのは、文久3年(1863)に勃発した薩英戦争 や元治元年(1864)の四国(英・米・仏・蘭)連合艦隊による下関砲撃事件 などの出来事でした。幕府は、より強固な江戸湾防備体勢を敷くため、品川から越中島までの間に新たに海岸砲台の設置を計画し、佃島砲台もその一つとして築造されました。
佃島砲台の規模は「東京市史稿」の「東京通志」によると「京橋区佃島南端海中ニアリ。東西凡39間(約70メートル)、南北凡40間(約72メートル)、面積凡1,370坪。元治元年甲子幕府之ヲ築キ、明治に至リ修理ヲ加ヘ、陸軍省ニ属ス」とあります。
明治期には、陸軍省 所管の砲台となりましたが、明治20年(1887)に始まった月島築造工事の際に、佃島砲台を基点として月島第一号埋立地 (現在の月島1~4丁目)の埋立が進められ、工事の過程でその姿を消しました。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
佃島砲台跡は、今では高層ビル群に囲まれ跡形もなく、隅田川左岸(佃大橋東詰)に説明板が設置されているだけです。
江戸時代の面影としては、近くに江戸時代から続く3軒の佃煮屋さん(天安・佃源田中屋・丸久)があり、大川(隅田川)対岸に佃島渡船の碑が建てられているだけです。
(2016/11/30)
ギャラリー
説明板
明治17年の測量図
江戸時代から続く佃煮屋さんを
大川(隅田川)対岸の佃島渡船場の碑と説明板