相模 河村城(山北町)

茶臼郭と小郭間の畝堀の大堀切

平安時代に築城され、戦国期には後北条氏の支城となる

所在地

神奈川県足柄上郡山北町山北
【アクセス】
JR山北駅から南へ進み、盛翁寺の参道手前をクランク状に左(東)へ曲がり、すぐに右(南)へと進むと登城口(駐車場有り)へと出る。但し、車で行く場合、国道246号線からは、側道を降りて盛翁寺へと進む。
盛翁寺:山北町山北2305、TEL:0465-75-0332

形状

山城(標高:約225m、比高:酒匂川から約130m)

現状・遺構等

【現状】河村城址公園
【遺構等】曲輪、空堀、堀切、畝堀、井戸、再現木橋、模擬冠木門、石碑、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2008/01/05

歴史等

河村城の築城は古く、平安時代末期に秀郷流藤原氏の一族波多野達義の二男河村秀高によって築かれたと伝えられている。秀高の子義秀は源頼朝の「石橋山挙兵」の際、平氏方に属したため領地を没収されるが、建久元年(1190)鎌倉での流鏑馬の妙技により、本領河村郷に復帰できたと「吾妻鏡」にある。
建武の中興・南北朝時代、河村氏は南朝側の新田氏に協力し活躍するが、北朝側の足利尊氏らによって鎌倉が攻められると、河村秀国・秀経らは新田義典・脇屋義治とともに河村城に籠城する。正平7~8年(1352~53)にかけて、畠山国清を主将とする足利尊氏軍と戦火を交えるが、「南原の戦い」で敗れ、新田・脇屋らは中川城を経て甲州に逃れたと「太平記」にある。
「南原の戦い」後、河村城は畠山国清・関東管領上杉憲実を経て大森氏の持城となったと考えられ、その後相模に進出してきた後北条氏に受け継がれていく。
戦国時代、後北条氏は武田氏との攻防から、小田原城の支城として河村城を重視し、特に元亀年間には河村城の補強を行ったことが「相州古文書」に見られる。
その後、武田氏との間で周辺の諸城とともに争奪戦を繰り返した。
そして、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐で落城、廃城になったと考えられるが、これらを伝える史料は残っていない。
『現地本城郭説明板より』

現況・登城記・感想等

今年の初登城であるから、近場でもなるべく多くの遺構が残っている城址からと思って河村城址へ登城したが、想定していた以上に良好に残っていて満足した。「こいつは春から縁起がいいぞ~!」
早朝5:00過ぎに出発したので、城下の駐車場に着いた時には、まだ薄暗く、少し車中で休憩してから出発した。
登り始めて、5分ほどで茶臼郭と小郭との間の堀切に出る。堀切は結構規模が大きく、畝堀になっていてかっこいい。畝堀は4つあり、一番手前と一番奥の堀には水が溜まっており、一番手前は、「お姫井戸」と名付けられ、往時は井戸として使用されていたらしい。
そして、茶臼郭から、真下に畝堀、そして小郭越しに本城郭の方を眺めるアングルはなかなか絵になる。
小郭と本城郭の間の堀切も畝堀になっている。この堀切は、茶臼郭と小郭の間の堀切ほど規模は大きくはないが、畝堀は7つあり、本城郭上から、その畝堀・小郭・茶臼郭を見下ろし、その両側奥に東名高速道路の鉄橋や山並みを眺める光景は素晴らしい。
本城郭は三角形状でかなり広く、周りに土塁はない。
次に、東の尾根の方へ行くと、本城郭と蔵郭の間にも堀切があり、木橋が架かっている。橋を渡って蔵郭へと行き、東の方を眺めると、発掘調査中らしく、東奥へと続く各郭にブルーシートがかけられた盛土の小山(一瞬、櫓台かと錯覚した)が見える。また、それらの郭間に大規模な堀切があるのが分かる。それらの堀切はシートが被せられてはいるが、段差があるのが分かる。これらの堀も畝堀になっているのであろう。
中でも、蔵郭と近藤郭間の堀切は大規模で、幅約30m・深さ約15mもあり、河村城最大規模とのことである。そして、見た目も素晴らしい。この堀切が、河村城址の最大の見所であろう。シートが外された姿を見たいものである。
一方、もう一つの峰にある馬出郭・西郭・北郭の方は、あまり整備がされず木が生茂ってはいるが、中へは充分入って行くことは出来、郭や堀切等も充分確認できる。
河村城は、山城としては、各郭がそれぞれかなり広く、城全体の規模もかなり大きい。そして、何と言っても山中城に代表される後北条氏の支城である。畝堀も含めて城郭全体が、実に美しいというか、芸術的な城址である。
(2008/01/05登城して)

ギャラリー

縄張図(現地案内板より) ~画面をクリックにて拡大画面に~
河村城縄張図

盛翁寺参道手前横に建つ「河村城址入口」の碑
ここへ辿り着くまで苦労した。ナビで盛翁寺を目標に来たが、国道246号線から側道を降りるのが分からず、246号線を何度も往復してしまった。
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登城口
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茶臼郭・小郭間の堀切(畝堀)
登り始めて5分ほどすると右手に茶臼郭と小郭との間の塁段状の大規模な堀切が現れる。
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塁段状の堀切を登ってみると、堀切は規模が大きいだけでなく、後北条氏お得意の畝堀になっていて見応え抜群で感激ものだ。
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お姫井戸
一番手前の畝堀は、「お姫井戸」と名付けられ、往時は井戸として使用されていたらしい。発掘調査では井戸の遺構は確認されなかったとのことであるが、河村城落城の時に城主の姫が井戸に身を投じたという哀話が残っているとのこと。
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茶臼郭・小郭間の堀切(畝堀)を茶臼郭から見下ろす
茶臼郭へは階段が設けられて登って行き、小郭との間の堀切を見下ろすと、畝堀の規模の大きさを改めて実感する。
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茶臼郭から本城郭方面を
茶臼郭から、真下に畝堀、そして小郭越しに本城郭の方を眺めるアングルはなかなか絵になる。本城郭は、茶臼郭より約10m高い。
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小郭・本城郭間の堀切(畝堀)
この堀切は、茶臼郭と小郭の間の堀切ほど規模は大きくはないが、やはり後北条氏お得意の畝堀で、堀の数は7つある。
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本城郭入口の模擬冠木門
本城郭への虎口には、城址には何故かお決まりの冠木門が造られている。
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本城郭
本城郭は三角形状のかなり広い郭であるが、周囲に土塁は設けられていない。北隅に立派な城址碑が。
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本城郭北隅に建つ河村城址碑
本城郭の北隅には随分立派な城址碑が建てられている。
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本城郭から小郭と茶臼郭を
手前真下には畝堀の堀切、にその向こうには小郭、さらに、その奥に茶臼郭を。
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本城郭から畝堀・小郭、そして向こうには東名高速道路と山並み
本城郭上から、その畝堀・小郭・茶臼郭を見下ろし、その両側奥に東名高速道路の鉄橋や山並みを眺める光景は素晴らしい。
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本城郭・蔵郭間の堀切に架かる再現木橋
堀切は、幅20m、深さ8m、堀底50cmの急傾斜である。堀切内から4本の柱穴が見つかった。橋脚の幅は4m、堀をまたぐ柱の間は8mあった。柱穴に残った炭化した柱の炭素測定から400年ほど前に伐採した木材であることが分かった。(説明板より) 
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蔵郭から東方面を
発掘調査中らしく、東奥へと続く各郭にブルーシートがかけられた盛土の小山が見える。その小山を見て、一瞬櫓台かと錯覚した。また、それらの郭間に大規模な堀切があるのが分かる。それらの堀切はシートが被せられてはいるが、段差があるのが分かる。これらの堀も畝堀になっているのであろう。
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蔵郭・近藤郭間の大堀切
中でも、蔵郭と近藤郭間の堀切は大規模で、幅約30m・深さ約15mもあり、河村城最大規模とのことである。そして、見た目も素晴らしい。この堀切が、河村城址の最大の見所であろう。シートが外された姿を見たいものである。
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大庭郭・近藤郭間の堀切越しに西方面(手前から近藤郭・蔵郭・本城郭)を
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大庭郭張出から西方面を
手前から大庭郭・近藤郭・蔵郭・本城郭。郭間にはそれぞれ堀切が。 
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馬出郭
もう一つの峰にある馬出郭・西郭・北郭の方は、あまり整備がされず木が生茂ってはいるが、中へは充分入って行くことは出来、郭や堀切等も充分確認できるが、写真だとただの雑木林? 
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馬出郭・西郭間の堀切
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