東郭から堀切越しに望む中郭
大都会「横浜市」にありながら完存にちかい遺構が残る城址
所在地
神奈川県横浜市都筑区茅ヶ崎2丁目(茅ヶ崎城址公園)
【アクセス】
横浜市営地下鉄「センター南駅」から東方約500m。車で茅ヶ崎2丁目に着くと、小高い城址が見えるのですぐ分かると思う。城址公園に駐車場はないが、「センター南駅」の近くに有料駐車場がある。そこから公園入口まで徒歩約5分。
形状
平山城(標高40m)
現状・遺構等
【現状】茅ヶ崎城址公園
【遺構等】郭、土塁、空堀、堀切、虎口、土橋、井戸、説明板、遺構案内板・説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2009/11/15
歴史等
茅ヶ崎城は14世紀末~15世紀前半に築城されたと推定され、15世紀後半に最も大きな構えとなる。16世紀中ごろには二重土塁とその間に空堀が設けられた(この築城方法は、後北条氏独特のものとされる)。築城には、それぞれの時期に相模・南武蔵を支配した上杉氏(室町時代)や後北条氏(戦国時代)が関与していたと推定される。
16世紀末までには、城としての役割は終わる。江戸時代には、徳川氏の領地となり、村の入会地(共有地)などとして利用され、「城山(じょうやま)」という地名とともに、今日まで保存されてきた。
【城の立地と歴史的環境】
茅ヶ崎城は、早渕川中流右岸の三角山(現:センター南駅付近の旧地形)から東に連なる丘陵の先端部に築かれた丘城である。標高は28~35mあり、最高所は中郭南西隅の土塁上で、およそ40mある。
当地域は、武蔵国南部にあたり、関東の政治の中心地である鎌倉に隣接している。茅ヶ崎城の近くには、関東各地と鎌倉を結ぶ鎌倉道のうち「中の道」が通っていたと考えられており、東側には後の中原街道、西側には矢倉沢街道(大山道)が通じている。また、早渕川沿いの道は神奈川湊(横浜市神奈川区)と武蔵国府(東京都府中市)を結ぶルートのひとつであった。茅ヶ崎城は、このような交通の要衝の地に自然の地形を巧みに利用して築かれていた。
【茅ヶ崎城をとりまく歴史的背景】
暦応元年(1338)、足利尊氏が京都に室町幕府を開くと、鎌倉には関東の統治機関として鎌倉府が置かれ、鎌倉公方・足利氏と、その補佐役の関東管領・上杉氏が力を持った。
15世紀半ばになると、鎌倉公方と上杉氏の対立、また、上杉氏一族の内紛が激しくなり、関東を中心に大規模な戦乱が起こり、文明8年(1476)の上杉氏家臣長尾景春の乱では、小机城が太田道灌に攻め落とされた。
15世紀終わり頃、伊勢新九郎長氏(北条早雲)は関東支配を進め、明応4年(1495)の小田原城の奪取をはじめとして、関東各地に支城を中心とした領国をつくっていった、。このころ茅ヶ崎城は、周辺の城とともに小机城を中心とする後北条氏の勢力下に組み込まれていたと考えられる。茅ヶ崎城の最高所に高さ8mほどの櫓を設置すれば、およそ3.5km離れた小机城を望むことができたようである。
天正18年(1590)の小田原の役では、豊臣秀吉の軍勢がこの地に押し寄せた。この時、茅ヶ崎城を含む11ヶ村に対して、軍勢による略奪や放火を禁止した豊臣秀吉の禁制が発布されている。
その後、徳川家康による江戸幕府の開府を経て、元和元年(1615)に一国一城令が出されると、多くの城は廃城となった。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
茅ヶ崎城は、平成2年度(1990)から試掘調査が始まり、平成15年度(2003)から公園整備事業が行なわれ、平成20年(2008)6月28日に城址公園としてオープンしたそうだ。
茅ヶ崎城址は、かつてよくあった公園化に伴う遺構の破壊もなく、完存に近い郭・土塁・空堀等々の遺構を目の当たりにすることができる。
山城マニアの人の中には、少し綺麗に整備しすぎだと思う人もいるかもしれないが、このように遺構を大切に残し、しかも城の説明板だけでなく、各遺構の懇切丁寧な説明板まで設置されているのは本当に有難いと思う。
茅ヶ崎城は、4つの郭からなる連郭式城郭で、更に周りに腰郭・帯郭を配して防御を強化している。
各郭を区画する空堀と土塁の規模は結構大きく、見応えがある。
城の中心にある中郭は周囲を土塁で囲まれ、西郭も中郭側を除き三方が土塁等で囲まれ、北郭も東西の土塁が残っている。
中郭の南西隅の土塁は、幅も広くて高いことから、櫓台だろうと思われる。この中郭を最高所にある東郭から堀切越しに眺める光景はなかなかのものだ。
大都会「横浜」にありながら、このように良好に残る遺構を見ながら廻ることができる城址があるというのは奇跡とさえ言えるのではないだろうか。
(2009/11/15登城して)
ギャラリー
茅ヶ崎城縄張略図(現地案内板より)
茅ヶ崎城は、4つの郭からなる連郭式城郭で、更に周りに腰郭・帯郭を配して防御を強化している。
登城口
公園化により他にも登城口があるが、北西部のこちらが虎口への登城口である。中央奥上に見える土塁は中郭の土塁、左側土塁上が北郭にあたる。
虎口
登城口から階段を登ると、道は2手に別れ、右側が虎口になっている。ただ、虎口は後に紹介する東郭虎口もあり、そのすぐ裾に根古屋があったことを考えると東郭虎口が大手口にあたるような気もするが・・・。
北郭と中郭土塁・東郭を眺める
階段を登り、左手を見るとこの光景が見えて嬉しくなってくる。右手前土塁が中郭の土塁、一番奥が東郭。中郭には2つの虎口があるが、それが果たして往時の物かどうかは・・・?
西郭と中郭間の空堀
水がしみ通ってしまうローム層を基盤とする横浜の城では空堀が多くつくられ、その形状は横断面が逆台形の「箱堀」が多く見られた。茅ヶ崎城址の堀は、両側の壁が70度と垂直に近く、また、ローム層が堅いために取り付きにくく、防御面で大変すぐれていた。(以上説明板より)
この空堀の写真は、虎口を入って南へ進んでから振り返って撮ったもので、右側土塁上が中郭、左側土塁上が西郭になる。
西郭
西郭は、中郭側を除き三方が土塁等で囲まれている。正面奥の土塁は中郭の土塁。
西郭南側の土塁
3方を囲む西郭の土塁の中でも、南側の土塁は幅も高さもかなりのものだ。
中郭南下の腰郭
中郭の南側には空堀と土塁があり、その下には腰郭がある。
中郭への南虎口
中郭への南東部に虎口がある。右奥の階段上が東郭。
中郭
中郭は周囲を高さ2m以上の土塁で囲まれている。中郭内南東部の発掘調査を行なった結果、全面に多数の柱穴や土坑が分布し、東西・南北に軸を持つ掘立柱建物が並び、南土塁との間を塀で区切っていることが明らかになった。それらの一部の建物跡から土坑が見つかり陶器の埋納坑と推定され建物は倉庫と考えられる。また、他の建物からは、炭化材とともに焼けた壁土のかけらが多数検出され、焼失した土倉と判明した。このことから、中郭南東部は倉庫地区であることが明確となった。しかし、住居施設としての建物跡は、これまでのところ確認されていない。(説明板より)
中郭南西隅の土塁(櫓台?)
中郭の南西部隅の土塁は郭内からでも7mほどあり、幅も広い。土塁上は城内での最高所で標高40mになる。恐らく櫓が建てられていたと思われる。
東郭へ
中郭を見たあと、東郭へと向かった。説明板によると「東郭は主郭に相当すると考えられます。東西50m、南北20mの不整長方形をしており、頂部の平坦面が中郭より3mほど高い位置にある。建物などの痕跡はまだ確認されていないが、この郭は、戦闘時における最後の拠点となる場所でもあったと推定される。」となっていた。しかし、他の郭の周囲が高い土塁で囲まれているにも関わらず、この東郭には土塁が見当たらない。詰の丸であると同時に物見台の役割も果たしていたと思われるというのはともかく「主郭」というのはどうも・・・・・?
東郭虎口
東郭へ向かうと、右手(南側)に虎口がある。このすぐ裾に根小屋地区があったことを考えると、こちらが大手口にあたるのではないだろうか?
尤も、東郭が主郭とするならば別だが・・・。
中郭と東郭間を断ち切る堀切
一方、左手(北側)には東郭(右)と中郭(左)の間を断ち切る堀切と堀切の最頂部には土橋が見える。
東郭
東郭には、少なくとも現状を見る限り、周囲に土塁痕らしきものは見当たらない。
中郭と東郭間の堀切に架かる土橋(写真奥が中郭)
当写真は東郭から撮ったもので、土橋の奥が中郭であるが、この土橋、郭からの斜度があまりにも急で、歩くのが危ないくらいだ。おまけに、どちらの郭にも虎口跡らしきものが見当たらない。木橋(引橋)の基礎と考えた方が良いのではないだろうか?
東郭から中郭を
上写真も同じような写真だが、この光景が妙に気に入り、いろんな角度から何枚も写真を撮ってしまった。
東郭北側下の腰郭
東西60メートルの帯状をなし、東北部は約200㎡の平場となっている。東側は急な崖で、北側には幅10mほどの北堀があり、東北郭との間を遮断している。この郭は、武者溜としての役割があったと推定される。(説明板より)
北郭
北郭は中郭より3mほど低く、高低差の少ない北側の防衛を強化している。東西両側に土塁が残っているが、往時は北側にあったのかも・・・?
井戸跡
北郭で上端の直径約4m、深さ5mほどの井戸が見つかっている。この井戸の湧水量は極めて多く、使用時にはかなりの量の水を確保できたと考えられる。遺構確認面から井戸底まですべてに水がたまっていたと仮定すると20lポリタンク約千本分にも達する。井戸の周囲からは使用する際に、横板や梁を渡して水を汲む簡素な施設が建設されたと思われる遺構がみつかっている。(説明板より)
北郭土橋跡
北堀の中央西部を掘り残したもので、上幅は2.9m、下幅は4.5m以上ある。横断面は幅広の大径で東壁は60度、西壁は70度となっていた。土橋に続いて、幅2m弱の土を固めた道路が郭内にのびている。この道が始まる両側には対になる柱穴があり、木戸の痕跡と考えられる。(説明板より)
説明板では以上のようになっていたが、地形を見ても実際にどうなっていたのかは よく分からなかった( ̄ー ̄;