東松山市役所敷地内にたつ石碑と説明板
上野前橋藩が自領の飛び地・武蔵松山に置いた陣屋
所在地
埼玉県東松山市松葉町1-1-58(東松山市役所、松山第一小学校近辺)
形状
陣屋
現状・遺構等
現状:市街地(市役所・小学校・住宅地)
遺構等:石碑、説明板(陣屋説明&陣屋見取図)
満足度
-----
訪城日
2007/08/04
歴史等
幕末の慶応3年(1867)1月、川越城主松平貞克は、
念願の再建がなった上野前橋城に移封を命ぜられた。
この時、松山を中心とする村々3万石余が同前橋藩の飛地として残された。これを支配するために、この松葉町に「松山陣屋」が置かれた。
松山陣屋は、小川道を境に南と北に築かれ、土塁、空堀などを備えた立派なもので、陣屋と考えるより、むしろ前橋城の支城の性格を持つものと考えられるものである。
同陣屋の藩士は258人で、当時松山の推定人口1,600人ほどの地に、家族を含めての大幅な人口増を見たことによって、
松山は大きく変貌した。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
今では遺構は全く残っておらず、東松山市役所の敷地内に石碑と説明板、そして当時、陣屋の南西部に出丸のように突き出た曲輪跡地に
「松山陣屋鉄砲場跡」と刻まれた石碑が建っているだけである。
説明板には、松山陣屋の現況図と復元図が並べて描かれており、現状が非常に分かり易い。これを見ると、
陣屋の北部分は市役所と小学校になっており、南部分は市街地になっているようである。
(2007/08/04訪れて)
ギャラリー
松山陣屋(㊧現況と㊨往時)の比較の図 ~クリックにて拡大画面に~
説明板には、松山陣屋の現況図と復元図が並べて描かれており、現状が非常に分かり易い。これを見ると、
陣屋の北部分は市役所と小学校になっており、南部分は市街地になっているようである。
㊧八幡神社とそこに建つ㊨「松山陣屋鉄砲場跡」
の石碑
上写真の左下にある出丸のような曲輪跡は、現在八幡神社が。
そしてその脇に結構立派な石碑が。