斉藤実盛館跡の「実盛塚」
平家物語・源平盛衰記や歌舞伎・謡曲・人形浄瑠璃等で有名な斉藤実盛の居館
所在地
熊谷市西野444、国道407号線「西野信号」の北東約400m
【行き方】
熊谷市街地から国道407号線を北上し、西野信号を右(東)へ曲がり、約400m進むと、県道341号線西野東信号へ出るので、
県道341号線を左(北)へ曲がり500mほど北上すると、左側に案内板(下写真)がある。
そこを大きく左へ曲がり路地へ入って行き、最初の路地を右へ約200m進む。車2~3台置ける空地有り。
形状
館
現状・遺構等
現状:河川、田園など
遺構等:実盛塚、説明板
満足度
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訪城日
2008/08/28
歴史等
熊谷市西野にある実盛塚(正式には斎藤実盛館跡実盛塚)辺りが斉藤実盛館跡と伝えられる。
実盛は、越前の出身といわれ、長井庄(旧大里郡妻沼町、現熊谷市)司斉藤実直の養子となり当地に住んだ。
実盛は、当初源氏に仕え、源義賢(義仲の父)が甥の悪源太義平に討たれた久寿2年(1155)の大蔵合戦(大蔵館参照)
では、駒王丸(のちの木曽義仲)をかくまい、信濃国木曽へ逃した。
その後、保元・平治の乱では源義朝に従って活躍したが、平治の乱で義朝が敗北すると、平宗盛(清盛の三男)に仕えて長井庄別当となった。
治承4年(1180)源頼朝が伊豆で挙兵すると、多くの武蔵武士たちが頼朝に従うなか、
平治の乱で敗れた自分を荘官として召抱えてくれた平氏への恩義を忘れず、平氏に組みした。
寿永2年(1183)5月、倶利伽羅峠(石川県津幡町)の合戦で敗れた平氏は、木曽義仲を篠原(加賀市)で迎え撃った。この時実盛は、
合戦を前に主君宗盛に討死の覚悟を伝え、故郷越前に錦を飾るため錦の直垂の着用を願い出て、拝領の甲冑とともに身につけ、
また老武士と見られることを恥じて白髪を染め、大将を装って出陣した。そして、壮絶な戦死を遂げたという。ときに73歳であった。
髪を染めていたため、首を検分した義仲もすぐには実盛とは分からなかったが、付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったため、
それが実盛の首と確認された。かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだという。
この話は、「平家物語」をはじめ、謡曲「実盛」や、軍記物語「源平盛衰記」、人形浄瑠璃「源平布引滝」、歌舞伎「実盛物語」として、
今日に語り継がれている。
『中世武蔵人物列伝・埼玉県立歴史資料館Ⅱ編(さきたま出版会刊)他参照』
現況・登城記・感想等
結構道が分かりづらくて、西野信号の北東方面へ進んだところで、畑仕事をしている70歳くらいの人に尋ねたところ、
作業を止めて自転車で誘導してくれた。
非常に親切な方で、実盛館(実盛塚)のことについても、いろいろ教えてくれた。
それによると、昭和初期に、蛇行していた河川の水路を堤防を築いて改変したため、旧態とは大きく変わっているとのことで、館跡は、
現在では実盛塚の横を流れる川の底や堤防や水田に埋まっているようだ。
また、その方が子供の頃には、塚の周辺は家は勿論、田畑も全くなかったとのことであった。
そして、現在も、この一帯地下には遺跡が残る可能性があることなどから、建築許可がなかなか下りないのだそうだ。
実盛館跡とされる実盛塚には板石搭婆以外何もないが、近くにある実盛創建とされる「聖天山歓喜院」には、境内に実盛の銅像が建つほかに、
実盛の木像が所蔵されているとのことであったが、残念ながら滅多に見せてはもらえないそうだ。
尚、「聖天山歓喜院」の伽藍は見事なもので一見の価値あり。
(2009/08/28訪れて)
ギャラリー
実盛塚(正式には斎藤実盛館跡実盛塚)
実盛塚にたつ板石搭婆(青石供養搭)は、正嘉元年(1257)11月27日に71歳で実途(実盛の子)
が死亡し、その49日に斎藤実家(実盛の孫)が建てた父(実途)の供養搭である。
塚の右(北)側を川が流れる。手前に2~3台ほど車の停められる場所あり。
改変された地形
昭和初期に、蛇行していた河川の水路を堤防を築いて改変したため、旧態とは大きく変わっているとのことだ。
館跡は、現在では実盛塚の横を流れる川の底や堤防や水田に埋まり、写真で見える場所辺りが中心であったのではないかとのことだ。
【聖天山歓喜院(正式には大聖歓喜天)】
斎藤実盛が、当地の庄司として、祖先伝来の本尊聖天さまを治承3年(1179)に祀ったのにはじまる。
次いで、実盛の次男斎藤六実長が出家して阿請房良応(あしょうぼうりょうおう)となり建久8年(1197)に本坊の歓喜院を開創した。
(実盛の銅像)
平成8年、開創818年御開扉の記念事業として実盛の銅像が建立されサウンドモールからは尋常小学校唱歌
「斎藤実盛」が流れる。この歌、私もさすがに知らない(苦笑)。
㊧貴惣門(国指定重要文化財)、㊨四脚門(中門)
㊧当山第1の山門で高さ16m、重層の特徴ある三破風を組合せ豪壮な構造美は全国に類例が少ない。
精巧な彫刻で周囲を飾り、二天王像(持国天・多門天)を左右に安置。嘉永4年(1851)竣工、棟梁は当町工匠林正道である。
昭和62年屋根改修。
㊨寛文の大火でも残り、聖天山の建造物群の中でも最古のものと言われる。木端及び側面破風の中央にある懸魚の模様など、
室町時代の特徴をよく表している貴重な建物で、里人はこの門を甚五郎門と称している。平成2年改修。
仁王門
万治元年(1658)の建立と伝えられるが、明治24年台風により倒壊。同27年に再建された。
左右の金剛力士は当時のままで、室町時代の気風を残す逸品である。昭和57年に屋根を改修。
㊧御本殿(国指定重要文化財)、㊨本坊本堂
㊧奥殿・中殿・拝殿よりなる権現造。斎藤別当実盛公が聖天宮を開創されてから何度も修復・再建されてきたが、
江戸時代初期、災火のため中門を残して焼失。現存する御本殿は、江戸時代中期に再建されたものである。現在、保存修理の大工事
(平成15年10月着工、平成23年6月完成予定)を行なっている。
㊨実盛の子良応僧都が、ご本尊にお仕えする行者の修行の場として、開創された。即ち、本殿は祈願の道場、本坊は修業の道場である。