武蔵 足利政氏館(久喜市)

甘棠院の南、山門脇西側の堀

足利政氏が関東公方家の内紛で敗れた後、隠退した館

別名

久喜館

所在地

埼玉県久喜市本町7丁目2-18、甘棠院
甘棠院:電話0480-23-1678

形状

現状・遺構等

現状:甘棠院
遺構等:堀、石碑、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2009/08/28

歴史等

足利政氏館(久喜館)は、政氏が関東公方家内紛で敗れた後、隠退した館である。
足利政氏は初代古河公方成氏の長男で、文明14年(1482)に享徳の乱(古河公方館参照) が終息した後に家督を継承し2代古河公方になったが、政氏の時代もまた争乱の時代であった。政氏は、 成氏が古河に移ってから11年後の文正元年(1466)に生まれた。
享徳の乱は、成氏と室町将軍義政の和睦によって終結したが、今度は上杉氏内部、 即ち山内上杉顕定と扇谷上杉定正の対立が激化した(※長享の乱)
この時、政氏は定正に組みしていたが、明応3年(1494)定正が没すると、顕定と和し、定正の跡を継いだ朝良を攻めている。
永正2年(1505)、17年続いた長享の乱が両上杉氏の和睦により終結すると、今度は戦国の梟雄北条早雲が武蔵進出をしてきた。
政氏は、この後北条氏との対応をめぐり、嫡男高氏(のちに高基と改名)と不和となり親子対立が続いたが、結局、 公方家の内紛は高基の勝利に終わり、政氏は小山祇園城を経て、 岩付城へと移った。 ここで出家した政氏は、高基と和睦し、久喜館に隠退した。館はやがて寺となり「甘棠院」と称される。
『埼玉の古城址(有峰書店新社刊)他参照』                 

【長享の乱】
長享元年(1487)から永正2年(1505) にかけて、山内上杉家の上杉顕定(関東管領)と扇谷上杉家の上杉定正(没後は養子・朝良)の間で行われた戦いの総称である。 この戦いによって上杉氏は衰退し、駿河今川氏の客将・伊勢宗瑞(北条早雲)の関東地方進出を許す結果となった。

現況・登城記・感想等

足利政氏館(久喜館)は、現在「甘棠院(かんとういん)」となっており、場所はすぐ特定できるが、周囲の道があまりにも細い上に、 迷路のようになっていて、入口まで辿り着くのに苦労した。
遺構としては、往時は館の周りをめぐっていた空堀(往時は水堀であったようだ)が、消滅してしまった東側を除いて明瞭に残っている。 その空堀は、結構規模も大きく、見応えがある。
中でも、南側の中門(山門)両側と墓地西側は、整備され見事な堀跡を眺めることができる。
北側の堀は、鬱蒼とした雑木林となり、金網で囲われているため立ち入りできない。その堀の背後も館跡の一部であろうと思われるが、 鬱蒼とした森になっている上、強烈な藪で、とても入って行く勇気はなかった(苦笑)。
甘棠院の北西には「甘棠院史跡公園」があり、ここにも西側の堀から続く堀が一部残っている。
尚、寺内には政氏の墓があるらしいが、門が閉ざされ入れなかった。(後で分かったが、拝観をお願いすれば入れるそうだ。ガクッ!)
(2009/08/28訪れて)

ギャラリー

甘棠院総門
門前の両側には、足利氏の「二つ引き両の紋」の石碑が、また写真左奥には「足利政氏公墓同館趾」 と刻まれた石碑が建てられている。

中門(山門)
総門を入って行くと、城門のような立派な中門(山門)が現れる。

甘棠院の南、山門脇東側の堀
山門の手前両側には、空堀が良好に残っている。TOP写真は、 反対側(西側)の空堀である。
昭和48年(1973)の発掘調査で、幅10m、深さ5m、45度の傾斜角をもつ箱薬研堀であることが判明した。 堀は関東ローム層の滞水層まで掘り下げており、往時は水位2mの水堀であったという。

本堂手前の中雀門
山門を入ると、両側が墓地となっており、正面には写真の中雀門、その奥に本堂が見える。門の右(東) 手前には説明板が設置されている。この中雀門は勿論のこと、この東側にある門も閉ざされていたので寺内に入るのを諦めたが、 拝観をお願いすれば入れることが後で分かった。ガクッ!!

甘棠院の西の堀
こちらの堀もよく整備され、墓地の西側から見事な堀跡を見下ろすことができる。

甘棠院の北の堀
北側のこの堀は、鬱蒼とした雑木林となり、金網で囲われているため立ち入りできない。

北の堀の背後の森
この森も館跡の一部であろうと思われたが、あまりにも鬱蒼としている上、強烈な藪で、 とても入って行く勇気はなかった(苦笑)。

甘棠院史跡公園に残る堀
甘棠院の北西には「甘棠院史跡公園」があり、ここにも西側の堀から続く堀が一部残っている。

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