下総 岩富城(佐倉市)

本丸周囲をめぐる土塁

千葉氏一族原氏が居城、滅亡後は地黄八幡で有名な北条綱成の孫氏勝が入城

所在地

千葉県佐倉市岩富町

形状

平山城

現状・遺構等

現状:浅間神社、畑、住宅地
遺構等:曲輪、土塁、空堀、虎口、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2008/02/13

歴史等

文明2年(1470)のころ、原左衛門尉景廣が築城したと云われ、景廣の子胤行らが城主であった。
天正18年(1590)5月、小田原の陣の時、北条氏政の家臣北条氏勝(地黄八幡で有名な北条綱成の孫)は相模玉縄城に籠城し、 最後まで死守する覚悟であったが、徳川家康の家臣本多忠勝・榊原康政らは再三にわたって降伏を勧告したので、 ついに帰順の要請を受け入れて家康の麾下となった。
同年8月、家康の関東入部にともない、氏勝は関東攻略の先導役を勤め、千葉氏の支城として戦略上重要な岩富城攻撃の先鋒となった。落城後、 氏勝は恩賞として、この地に1万石で封ぜられ入城した。
養子の氏重が、慶長19年(1614)下野国富田に転封されたため、廃城となった。
『「現地説明板」、「藩と城下町の事典(東京堂出版刊)」他参照』

【地黄八幡】
北条綱成の父は、今川氏に仕えた福島正成である。甲斐の武田信虎との戦いで父を亡くし、綱成は小田原に移り北条氏綱に仕えた。やがて、 氏綱の娘と結婚し、福島の姓を改め北条を名のった。綱成は武勇をもって知られ、黄色の地に八幡と書かれた旗印を用いたことから、 その軍勢とともに、日頃「黄八幡(きはちまん)」と呼ばれた。

現況・登城記・感想等

岩富城址のほとんどは住宅地に埋もれてしまっているが、本丸周囲の土塁と虎口手前の空堀は良好に残っている。
本丸内は北側半分は畑になっており、南側半分は金網で囲まれ、山羊が飼われている。 山羊が西側や南側の3m近くあろうと思われる土塁に登って草を食べているのが、のどかな感じだ。
西側や北側土塁の外側は崖になっており、それなりに要害の地であったのが分かる。
尚、この近くには駐車できるようなスペースはない。
(2008/02/13登城して)

ギャラリー

登城口
岩富城本丸には浅間神社が建つが、道路からの入口に鳥居と説明板がある。

本丸虎口
強烈な逆行(西日)で写真が旨く撮れなかった。正面土塁は2m以上あるだろう。幅も広く、 櫓が建っていたのだろうか。虎口手前両側には空堀が残っている。

空堀
空堀はそれほど深くはないが、土塁上からは8m近くあるかもしれない。幅も8m程度であろう。

本丸周囲をめぐる土塁(本丸北東部)
本丸は北側半分は畑、南側半分は山羊が飼われているが、周囲の土塁は実に良好な形で残っている。

山羊と土塁
山羊が3匹飼われていたが、さすが山羊は傾斜地をもろともしない。 3m近くはあろうかと思われる土塁に登って草を食べてるのが、何とものどかな感じがした。左写真の土塁は南側、 右写真の土塁は南側から西にかけて。
 

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