周囲をめぐる水堀越しに砲台跡を
明治初頭に東京湾要塞の一環として築かれた要塞
所在地
富津市富津字下洲原(富津公園内)
形状
台場
現状・遺構
現状:富津公園
遺構等:曲輪、土塁、石垣、水堀、砲座基部、弾薬庫、説明板等
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2008/09/11
歴史等
富津公園一帯は、明治4年(1871)明治政府により砲台と海堡が築かれた。
ここ中の島は元洲砲台として同年8月に起工し、約3年の歳月をかけて築造された。
明治28年(1895)には、東京湾要塞司令部が発足し、守備隊が置かれた。元洲砲台には歩兵中隊446名が守備に就いたが、
幸いにも一発も発射されることがなかった。
日露戦争には一部攻城砲として、旅順に送られたものもあった。
大正4年(1915)9月に旧式として除籍され、陸軍技術本部の大砲試射場となり、後に24センチ列車砲も設けられ、その試射もあった。
軍の占拠は第二次大戦終戦まで続いたが、昭和26年(1951)に県立公園に指定された。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
富津公園内へ入って200mほど行った左側の、堀で囲まれた中の島が元洲砲台跡であるが、その西側一帯も含まれるようで、
幕末に築かれた富津台場とかなり重なるようだ。
周りを土塁で囲まれていて、小型品川台場といった感じだ。
遺構は、品川台場よりもはるかに多く残っていて、砲座基部、弾薬庫、機銃台等々数多いが、案内板がなく、
それが何なのか分からないものもいくつかあった。
土塁上から松林越しに見下ろすエメラルドグリーンの色をした堀は絵になる(尤も、松喰い虫にやられて枯れてしまっている松も多いが)。
また、土塁上には展望台が建てられ、東京湾の眺望が見事であったが、あいにくの天候で、うっすらとしか見えなかったのは残念だった。
晴れていたら、遠く富士山も見渡せるようだ。
(2008/09/11訪れて)
ギャラリー
水堀(南側)
富津公園内へ入って200mほど行くと、左側にこの水堀が見える。想定していたよりもはるかに立派で、
幅20~30mある。
水堀(西側)
富津岬一帯は、第二次大戦終戦まで軍の占拠により立ち入り禁止であったが、昭和26年に、
県立公園に指定され、昭和28年には中の島周囲の堀に三橋が架けられたそうだ。
正面(南側)水堀に架かる石橋から入城
この写真左側に字が薄くなって見辛い説明板がある。右上に見えるのが土塁上に建つ展望台。
虎口
石橋を渡り、この虎口から入城する。両脇には石垣が積まれている。両脇の土塁は高さ6m、幅10mほどと、
かなり大規模である。
台場の中
周りを土塁で囲まれていて、小型品川台場といった感じだ。
弾薬庫?
土塁の東端下に、このような穴蔵があったが、弾薬庫であろうか?
弾薬庫内部
弾薬庫?の中は、赤煉瓦積みで畳2畳くらいの非常に狭い空間だ。
弾薬庫の上
弾薬庫の上は、不自然にコンクリが敷かれているが、何の跡なのだろうか?また、丸い台(写真右上)があり、
その上に「拓魂 千葉県知事 友納武人」とあったが何なんだろう?御存知の方がいらしたら教えて下さい。
機銃台?観測壕?
土塁の上に、こんな石積みがあったが、何なんだろう?機銃台?観測壕?説明板が欲しいところだ。
砲座基部の窪み
このような砲座基部は5箇所ほどに良好に残り、砲の据えられていた窪みが土塁上からよく分かる。
土塁と砲座基部(展望塔上から撮影)
土塁左に砲座基部の窪み、右に水堀
松林越しに水堀を(展望塔上から撮影)
松林越しに見下ろすエメラルドグリーンの色をした堀は絵になる。尤も、松喰い虫にやられて枯れてしまっている松も多いが。これでも、
この写真の辺りは枯松が一番少ない辺りである。
また、写真上に東京湾が見えるが、あいにくの天候で、うっすらとしか見えなかったのは残念だった。晴れていたら、遠く富士山までも見渡せ、
素晴らしい眺望のようだ。
展望塔
土塁上には展望塔が。昭和28年に高さ11mの展望塔が建てられたが、その後老朽化により、
昭和55年に高さ9.1mの展望塔が再建されたとのことである。
【海の幸・穴子】
富津といえば、海の幸だ!
この辺りは穴子が有名なようなので、昼食は「焼穴子丼」を食べに「大定:富津2027、電話0439-87-2021」へ。ついでに、
「鯵のなめろう」も・・・。美味かったが、どちらかと言うと鮨屋の煮詰めた穴子の方が好きかも!?でも美味かった(笑)。どうです、
穴子のこの照り具合は!!