古河公方館跡にたつ石碑
鎌倉公方足利成氏が鎌倉を追われ古河公方と称し本拠地を古河に移した
別名
鴻巣御所
所在地
茨城県古河市鴻巣、古河総合公園
形状
平城
現状・遺構等
現状:古河総合公園
遺構等:土塁、堀、石碑、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2006/06/25
歴史等
鎌倉公方の初代は、足利尊氏の四男基氏で、以降、氏満、満兼、持氏と続く。持氏のとき、京都では5代将軍義量が亡くなった。
前の将軍義持には義量のほかに男子がなく、義持の弟4人は出家しており、将軍位が空位となった。
将軍位を狙った持氏は、義持に急接近をはかったが、相手にされず、将軍には結局義持の弟4人が「クジ引き」で決めることになり、青蓮院義円
(6代将軍義教)となった。
持氏は激怒し、将軍就任の祝賀会にも使者を送らず、年号が正長から永享に変っても新年号を用いないなど、幕府の指令は一切無視し、
将軍家との亀裂は決定的となった。そればかりか、持氏暴走を諫める関東管領上杉憲実とも対立するようになった。
永享10年(1438)憲実は身の危険を覚え、本国上野に逃れた。憲実は幕府に救援を求めると、将軍義教は大軍で鎌倉を攻めさせた。そして、
翌年2月持氏と子義久は自殺し、鎌倉府は4代90年余で壊滅した(永享の乱)。
翌年、結城氏朝が持氏の遺児春王丸・安王丸・永寿丸を擁して挙兵したが、嘉吉元年(1441)4月、攻防8ヶ月の末、結城城は陥落した。
春王丸と安王丸は殺されたが、まだ8歳と幼かった永寿丸は美濃の守護土岐氏に保護された
(結城合戦)。
結城合戦のあと、関東の地は管領上杉氏に支配されたが、争乱は治まらず、幕府は、宝徳元年(1449)
4月永寿丸を鎌倉公方に復権させ成氏と名乗らせた。
ところが、成氏は、父と兄の仇である管領上杉氏と常に対立し、享徳3年(1454)管領憲忠を謀殺した。
時の将軍義政は鎌倉公方の強大化を恐れ、成氏追討を命じた。翌4年(1455)の6月16日、成氏は鎌倉を脱出し、
勢力圏の下総古河に本拠を移した。そして、その後渡良瀬川と沼に囲まれた要害の地である下河辺氏の館跡に古河城を築き移った
(享徳の乱)。
以後、成氏は古河公方と称され、その系統は5代127年間続いた。
やがて古河公方が後北条氏によって支配されたが、成氏の築いたこの館は「鴻ノ巣御所」として寛永4年(1627)まで存続した。
『歴史と旅・戦国大名家総覧(秋田書店刊)参照』
現況・登城記・感想等
古河公方館跡は、かなり広い古河総合公園の一角にある御所沼に半島状の森の台地が突き出ており、「公方様の森」として残っている。
残っているとは云いながら、遺構として確認出来るのは、その半島の東西にある土塁と堀だけである。
公園はよく整備がされており、御所沼も近年復元されたもののようではあるが、自然な湖沼地帯のようになっており、
市民の憩いの広場となって多くの家族連れの人々が来ていた。(2006/06/25訪城して)
ギャラリー
古河公方館の図 ~クリックにて拡大画面に~
古河総合公園はかなり広く、古河公方館跡はその一角に「公方様の森」として人知れず?残っていた。
御所沼
公方館跡を囲む御所沼は、近年復元されたもののようではあるが、自然な湖沼地帯のようになっている。
土塁?
石碑
ほぼ同じ場所に石碑が2基あった。石碑の向こう側が空堀と土塁跡らしかった。
土塁と空堀もどき?
この土塁と堀の方が、よほど遺構らしかったが、これは近年の御所沼復元時に造られたものか?
公園
古河総合公園は市民の憩いの場所になっており、多くの家族連れで賑わっていた。
その片隅には孔雀が羽根を拡げていた。