城址入口、奥には本郭と二郭間の空堀が見える
平将門の叔父良文の末裔相馬氏により築城、将門による築城伝説も
所在地
茨城県守谷城本町(守谷小学校近辺本町858)、守谷
形状
平山城
現状・遺構等
土塁、曲輪、空堀
満足度
★★★☆☆
訪城日
2006/07/23
歴史等
守谷城は守谷市(城内地区)と平台山と称する沼内の半島状の台地とを併せて呼ばれている。
鎌倉時代の初期に平台山に初めて城館が構築されたが、戦国時代になると戦闘様式等の進展に伴って城は現在の守谷小学校(本郭のあった所)
周辺に増築、移転した。
平台山に最初に築造された城のことを守谷本城とも呼ばれている。この守谷本城は鎌倉時代になって、平将門の叔父に当る平良文の子孫・
相馬師常によって築城されたものである。師常は源頼朝の旗上げに最先かけて参陣し、その功により相馬郡の他に、結城・猿島・豊田(一部)
の諸郡を拝領し、更には奥州相馬の地をも賜ったのであるが、守谷本城はそれらの領地を統括する本城としての役割を演じた。
本城の面積約21,254㎡で、それを三郭に分割し、各郭は大規模な土塁、堀等によって区画され、
その堀には満々たる水が入り込み舟着場も残されている。尚、その三郭には妙見社も建てられ、
相馬野馬追いの行事もその社前で実施されたといわれている。
天文7年(1538)の国府台合戦以後、後北条氏の勢力が下総国に影響を及ぼすようになり、相馬氏は北条氏政・古河公方義氏と和睦し、
永禄9年(1566)城主・相馬治胤がこの城を古河公方に提供し関東の拠点となすべく計画をした。尚、
本城は戦国期になって本拠を守谷市城内地区の地に遷したが、その後も守谷城の出城として使用されていたようである。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐により後北条氏が滅ぼされ、守谷城には徳川家康の家臣・菅沼(土岐)定政が入城し、
守谷領1万石の大名となった。元和2年(1616)菅沼定義が、摂津高槻に転封となったが、定義の子・頼行が守谷城主に復帰したが、
寛永5年(1628)出羽上山に移封されると、
守谷城も事実上廃城となり、城下町のみが近世の町へと発展していく。
尚、伝説として平将門が築城したと伝わっているが、平安時代の館跡の存在を裏付ける根拠は見られず、
立地条件から考えてもその可能性は低いと思われ、平将門伝説は将門を祖と称している相馬氏と北相馬郡との強い結びつきの現れと考えられる。
『現地説明板(城内地区&平台山)より要約』
現況・登城記・感想等
守谷地区は「つくばエクスプレス」の開通で便利になり、完全に東京のベッドタウンになってしまい、道も大きく変わったため、
ナビがありもしない道を指示したりして、城跡を探すのに苦労をした。
守谷小学校の前に土塁の一部が残っており、そこに城址の石碑と説明板が建っている。また、小学校の中には「平将門城址」
という石碑が建っている。この守谷城も関東によくある平将門の築城だという伝承があるらしい。
そして、平台山(守谷本城)は、そこから、北東の方向にくねくねと曲がった道を300m程行ったところの堀跡のような芝生公園越しにあり、
駐車場もある。そこから道を下って行くと、守谷本城の虎口に出る。虎口を入ると枡形があり、その左前方に残っている堀切
(本郭と2郭の間の堀切)は非常に深く見事なものである。
本郭は結構広く、周りは土塁で囲まれている。本郭の東側にも深い空堀が掘られ、土橋が架かっている。それを渡ると、
その先も3郭との間が堀切になっている。
駐車場に戻り、さらに東へ2~300mほど行くと、ここにも駐車場がある。そこから見る守谷本城の周りは、低くなっており、
今では芝生と花と池の水郷公園(本城の南側は今でも広い池)のようになっており、往時は、
まさに水に浮かんだ城であったであろうことがよく分かる。
(2006/07/23登城して)
ギャラリー
守谷城絵図
【守谷本城】①本郭、②二郭、③三郭、④馬出し、⑤舟着場、⑥枡形
【近世守谷城】⑦清水門、⑧六郭、⑨和田の出口、⑩残された榎木、⑪枡形、⑫追手(大手)、⑬馬場
【近世守谷城(戦国期の守谷城)】
㊧近世守谷城の石碑と説明板、㊨平将門城址の石碑
㊧は守谷小学校前に残る土塁のところに立っている。㊨は守谷小学校内に立っている。
土塁
【守谷本城】
東側から見た守谷本城全景
芝生公園(左)と守谷本城(右)
この芝生公園の辺りは、見るからに往時は水堀になっていたのが分かるような地形である。
本郭と二郭間の空堀
城址公園に入るや否や、左奥に本郭と二郭の間の大規模な空堀が見える。
写真では大したことはないように見えるが、実に巨大な空堀で、深さ6~7mほどもある
本郭への虎口
まずは本郭方面へ進むと本郭虎口へ出る。両側の土塁は2m近くある。
本郭
中世の平山城の郭としてはかなり広い方だろう。
本郭周囲をめぐる土塁
本郭の周囲は高さ2mほどの土塁がめぐっている。
本郭の北東の土橋
土橋を守るためだろうか、土橋の上に木橋が架かっている。
土橋下の空堀
この空堀もかなり深く見応え十分だ。
本郭と三郭間の堀切
この堀切も随分深く切られ、本郭と三郭を分断している。高さ5mほどはあるであろう。
守谷本城南側の池(右)
本城は湿地帯で囲まれ往時の面影が偲ばれる。南側にはまだ非常に広い池が残っている。