下野 御前原城(矢板市)

御前原城本丸北側(西部分)の空堀

源姓塩谷氏が築いた広大な城郭、シャープ工場群内に本丸が残る

読み方

ごぜんばらじょう

別名

中村城

所在地

栃木県矢板市早川町御前原(御前原公園)
【アクセス】
東北自動車道矢板ICを降り、国道4号線を北上し、「早川町信号」を左折(西へ)し、300m程入っていくと、左手(南側)に公園がある。ここが城跡で、狭い切れ目から公園内へ入ると、公園(本丸跡)内に駐車できる。周囲はシャープ矢板工場。

形状

平城

現状・遺構等

【現状】 御前原公園
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀、土橋、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2010/11/20

歴史等

伝承によると御前原城は、治承・寿永年間(1177~85)に堀江左衛門尉頼純によって築かれたという。
源姓塩谷氏(堀江氏)は、源義家(八幡太郎義家)の出で、塩谷氏の初代が頼純であるという。
義家の子・義親は摂津国堀江荘に住み、初めて堀江氏を名乗ったという。そして義親の子・頼純は父が誅された後、下野の塩谷郷に流罪となったが、荘司(荘官)となり初めて塩谷姓を名乗ったので、源姓塩谷氏のことを堀江氏とも称した。
御前原城は、頼純が塩谷荘に居館を構えて支配の拠点とし、その後も塩谷氏(堀江氏)が住し、その居館が次第に整備拡張され、堅固になったのが御前原城であろうと思われる。
その後、塩谷氏は宇都宮氏の支配下に組み込まれた。この時、新しい拠点として川崎城(川崎反町)を築いたようである。
教綱のとき、宇都宮城にて謀殺され塩谷氏は断絶したが、宇都宮氏16代城主正綱の四男孝綱が塩谷氏を継いで再興したが、孝綱の跡を継いだ由綱(義孝)は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原征伐・関東平定に背いて奥州に逃れているので、この頃に御前原城も川崎城とともに廃城になったと思われる。
『とちぎの古城を歩く・塙静夫著(下野新聞社刊)ほか参照』

現況・登城記・感想等

御前原城跡は、工業団地造成前の昭和40年(1965)頃までは、本丸・二の丸・三の丸からなる遺構を残し、南北約700m、東西約400mという広大な規模であったというから相当なものだ。
今も、シャープの工場群に囲まれた中に、周囲を二重の土塁と空堀に囲まれた本丸跡が残る。その規模は、東西177m、南北184mの方形で、北と西に虎口を開き土橋が架かっている。
土塁・空堀ともに極めて良好に残り、内側の土塁は城内側の高さが約3~3.5m、堀底からは約4.5~5m、外側の土塁は高さ約2mである。空堀の幅は5~6mほどある。
本丸内は、1m弱の低い土塁で区切られ、それぞれがゲートボール場などになっている。中央には、区分けのための土塁より、ちょっと高めの土塁と浅い空堀に囲まれた所に麻疹地蔵堂が建っている。
それにしても、工場内敷地に、よくぞ、これだけの遺構が残ったものだ。
(2010/11/20登城して)

ギャラリー

御前原城見取図(本丸跡麻疹地蔵堂横の絵図板より)
御前原城は本丸・二の丸・三の丸からなり、南北約700m、東西約400mという広大な規模であったというから相当なものだ。現在残る本丸は、朱色で塗った土塁内である。見取図を見てみると、複合方形館といった感じだ。尚、図には井戸の表示があるが、ゲートボールに興じていた年配の方に聞いたが、見たこともなく知らないそうだ。恐らく、相当昔に埋まってしまったのであろうと思われる。
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北側の虎口から入城
北側の虎口から入城するが、車もこの狭い虎口から入って行き、本丸跡内に駐車できる。左(東)側の外側土塁上に「御前原城跡」の案内板と石碑等が立っている。尚、往時の虎口は西側にもあったようで、現在も虎口と土橋が残っているが出入りはできない。
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北側虎口と土橋
外側土塁に挟まれた虎口を入って行くと、空堀があり土橋が架かっている。その奥には、さらに一段高い内側の土塁があり、虎口が開けている。そこを入ると本丸跡である。
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本丸北側(東部分)の空堀
空堀の幅は5~6mほどある。かなり埋まってしまっているようで、土橋からの深さは1.5mといったところだ。尚、TOP写真が本丸北側の西部分の写真である。
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本丸跡(北東角土塁上から撮影)
本丸は周囲を二重土塁と堀で囲まれ、その規模は、東西177m、南北184mの方形である。本丸内は、1m弱の低い土塁(写真左側)で区切られ、それぞれがゲートボール場などになっている。中央には、区分けのための土塁より、ちょっと高めの土塁と浅い空堀に囲まれた所に麻疹地蔵堂(写真中央奥)が建っている。
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本丸を南北に区切る土塁
土塁の右側はゲートボール場、左側は奥が空地で、手前には麻疹地蔵堂が建っている。
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本丸を東西に区切る土塁
土塁の右側はゲートボール場、左側には麻疹地蔵堂が建っている。

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本丸内中央に建つ麻疹地蔵堂と堂内に安置された地蔵
地蔵堂は、塩谷孝綱没後4年目に、長男由綱が父追善供養のために建立したもの。

本丸東側の空堀(北東角土塁上から撮影)
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本丸北側の空堀(北東角土塁上から撮影)
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本丸西側の空堀の北部分(空堀に架かる土橋上から撮影)
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本丸西側の空堀の南部分(空堀に架かる土橋上から撮影)
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本丸南側の空堀の西部分
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本丸南側の空堀の東部分
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