下野 富田城(栃木市大平町)

城山と呼ばれている二の丸北辺の土塁跡(右奥)と大平小学校正門脇の石碑と説明板

皆川氏一族富田氏により築城、戦国期は皆川城の南方防衛の拠点に

所在地

栃木県栃木市太平町富田(大平西小学校の周囲一帯)
大平西小学校:大平町大字富田1869、電話0282-43-2007

形状

平城

現状・遺構等

現状:大平西小学校、宅地ほか
遺構等:土塁、石碑、説明板

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2010/11/20

歴史等

富田城は、伝承によれば、嘉吉元年(1441)に皆川氏の一族富田成忠によって築かれ、その子忠宗と続き、 以後富田氏代々の居城となったという。
弘治3年(1557)、富田信吉のとき、皆川城主俊宗と戦ったが敗れ、 富田城は落城し、以後、皆川城の支城となったという。
天正18年(1590)の「関東八州緒城覚書」に、皆川広照の勢力下の城として「とみたの城」とあるので、 皆川城の南方防衛の拠点として重要な位置を占めていたと思われる。
『とちぎの古城を歩く・塙静夫著(下野新聞社刊)他より』

現況・登城記・感想等

富田城は、大平西小学校敷地を含めた西方と北方にかけた一帯にあり、東西約400m、南北約500mの広さであったという。
城跡は、JR両毛線によって分断され、本丸跡は大平西小学校となって消滅したが、 小学校のすぐ北側に城山と呼ばれる二の丸北辺の土塁跡が残っている。土塁は、高さ4~5m、長さ約85mほどあり、 土塁上には大きな木々が生えている。
また、小学校の正門脇に石碑と説明板が建てられている。
(2010/11/20訪れて)

ギャラリー

城址碑と説明板
本丸跡の大平西小学校正門脇には石碑と説明板が建てられている。

二の丸北辺の土塁跡
小学校のすぐ北側に二の丸北辺の土塁が残っている。土塁の高さは4~5m、長さは85mほどである。 土塁上には大きな木々が生えていて、地元では城山と呼ばれているようだが、確かに、ちょっとした小山のようだ。

線路で分断
城跡はJR両毛線によって分断されており、二の丸北辺の土塁跡の北側を線路(写真左)が通っている。

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