主郭と2郭間の堀切に架かる祇園橋
関東の名族小山氏の居城、小山の地は後に小山評定でも有名に
別名
小山城
所在地
栃木県小山市城山町1丁目(城山公園)
形状
平山城(崖端城)
現状・遺構等
【現状】城山公園、宅地等
【遺構等】曲輪、馬出し、土塁、空堀、堀切、土橋、石碑、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2007/06/24
歴史等
下野の名族・小山氏の祖は、平安時代中頃に起こった平将門の乱を鎮めた藤原秀郷(田原藤太)である。秀郷から12代目の孫政光が、平安末期小山付近に館を構えたことから「小山氏」と称せられた。その地は「神鳥谷(ひととのや)」とも云われるが確証はない。小山氏は関東有数の豪族領主として知られ、初代政光の時に源頼朝の旗上げに参じて以来、鎌倉幕府内で勢威を張ってきた。
南北朝期、第11代義政(10代との説もある)は北畠親房に応じて南朝方としての旗色を鮮明にしつつ勢力を伸ばしていた。関東管領(鎌倉公方)足利氏満は、この動向を察知し、密かに小山攻略の準備をするよう宇都宮基綱に命じていた(尤も、南朝方に付いた云々は、こじつけとの説もあるが)。義政は、その動きを洞察し、康暦2年(1380)5月5日、一族1000人を祇園城(どの城かは必ずしも確定出来ないが)に集結し、宇都宮勢2万の大軍に向かって軍勢を進め、遂には基綱を討ち取った。
氏満は、6月1日、関八州の守護大名に指令し、幕府連合部隊は、6月17日祇園城を包囲、攻撃した。籠城方もよく防いだが、4ヶ月の持久戦の末、降伏・開城となった。その時、義政は脱出し、櫃沢城(粕尾)に身を隠したが、幕府は各地に大軍を派遣し、義政の所在を探した。その為、義政も遂には追い詰められ自刃した。また、義政の子隆政は、その後、さらに奥州へと逃れたが自刃するところとなり、隆政の幼児2人も鎌倉へ護送された後、金沢六浦の海中に投げ込まれ、ここに小山氏の正統は根絶した。
やがて幕府の配慮により、同族結城氏から、結城朝光8代目基光の次男泰朝が小山に入って第2次小山氏の祖となった。泰朝はおそらくこの城址の一郭に居住したと考えられるが場所不明である。その後、第3代持政の時、時勢にかんがみて大いに拡張整備された模様である。第2次小山氏は8代に及んで相続されたが、政種は北条氏政の息女を室に迎えたことから、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原征伐の際、後北条方に加担したため、所領没収追放の身となり、ここに小山政光から22代、450年にわたった小山家は全く滅亡した。
【余話】
小山氏最後の城主政種の子に小四郎秀広、その子に小四郎秀常と家名は続いた。そして秀常の長男は刑部安勝と称した。また、安勝の弟小四郎秀勝は水戸家に仕え近世を通じ家名が保たれた。
また、第2次小山氏の第3代持政の弟良郷は近江国粟太郡大石に移住し、大石弾正と称したが、その後、子孫大石蔵助良雄は浅野内匠頭の家臣として、元禄の「忠臣蔵(赤穂浪士)」として名を残した。
『「現地説明板」、「戦国大名家総覧(秋田書店刊)」参照』
現況・登城記・感想等
登城前は、東京へも通勤圏にある小山市の中心部にある公園ということで、正直なところ、あまり期待もしていなかった。
しかし、大きく分けて4つの広い郭跡(実際は、もっと多くの郭に区画されている)は勿論、郭周囲の土塁や空堀、馬出等々、多くの遺構が非常に良好な状態で残っているのに驚いた。中でも、各郭を区画する、深くて10mほどある幅の広い空堀は感激物である。
城は思川左岸(東岸)の河岸段丘を利用して築かれた城で、南北に長く、西側を思川の浸食によって切り立った崖になった天然の要害を利用している。
全体的に、城の縄張りは分かりやすいが、かなり見落としたような気もする。各所に標柱や簡単な解説があるとさらに有難いのだが・・・。
(2007/06/24登城して)
ギャラリー
祇園城鳥瞰図(余湖くんのホームページより)
祇園城は思川東岸の河岸段丘を利用して築かれた城で、南北に長く、西側を思川の浸食によって切り立った崖になった天然の要害を利用している。
主郭
主郭土塁(土塁上にて撮影)
主郭西側からの眺望
祇園城は思川に沿って小山城-長福城-鷲城と思川左岸に南北に並んで築かれ3城が一体となって機能していた。写真左側には長福城、鷲城(奥の森)が見える。すぐ下は断崖絶壁である。
主郭と2郭間の堀切に架かる祇園橋と主郭の土塁
祗園橋(2郭側から撮影)
何故か赤い橋は何枚も写真を撮りたくなる?
主郭・2郭間の堀切 (堀底東側から)
深さは5~6mほどはあり、幅は10m以上あるであろう。
主郭・2郭間の堀切 (祇園橋上から思川方面を)
2郭南西隅の馬出し
最初この曲輪を見た時、城内で一番厳重に防備がされており、広さもそれなりにあることからここが主郭かと思った。
馬出しの周りの空堀(東側)
馬出し周囲の空堀(北側)
2郭
この郭は非常に広い。
2郭北側の土塁
2郭と3郭間の堀切に架かる橋(3郭側から)
2郭内へは非常に狭くて長い虎口を通る。
2郭と3郭間の堀
この堀は天然の谷(沢)を利用して手を加えたものであろう。深さ10m以上、幅は15mほどはあるであろう。実に迫力がある。底には小川が流れ、思川に注いでいる。
塚田邸跡
3郭は高低や形等々、非常に複雑で、塚田邸跡と北久保邸跡の境目はよく分からなかった。。
塚田邸東側(塚田邸と中久保邸間)の空堀
この堀は他の堀に比べてかなり浅く、堀底道も兼ねていたのであろう。尚、写真右側の中久保邸跡はほとんど宅地化している。
北久保邸北側の空堀
この堀切も、非常に深くて、広く、迫力がある。