中城と外城を区画する土塁と堀
足利義政の乱、2度目の蜂起で籠城
所在地
栃木県小山市外城(鷲神社周辺)
小山総合公園の北東の森
形状
平山城(崖端城)
現状・遺構等
【現状】山林、住宅地
【遺構等】曲輪、土塁、櫓台、空堀、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2007/06/24
歴史等
康暦2年(1380)から永徳元年(1382)にかけて、小山氏10代(11代との説もある)の義政は、3次にわたって関東公方足利氏満の軍勢と戦った(小山義政の乱)。
「小山義政の乱」には、この鷲城を本城として支城の祇園城(小山城)、長福城、中久喜城(小山市中久喜)などとともに、鎌倉公方・足利氏満によって動員された軍勢を迎え撃つための拠点となった。
この乱の原因は、南北朝期、小山氏第11代義政(10代との説もある)が北畠親房に応じて南朝方としての旗色を鮮明にしつつ勢力を伸ばしていたことにより、小山氏を抑圧しようとする氏満の策謀があったとされ、その指令を受けた関八州の守護大名による幕府連合部隊が、小山に攻め寄せた(尤も、南朝方に付いた云々は、こじつけとの説もあるが)。
最初の蜂起で館(神鳥谷「ひととのや」の館か?)を攻められた義政は、2度目の蜂起となる康暦3年(1381)には鷲城に立て籠もって戦った。しかし義政は結局敗れ、その翌年、櫃沢城(粕尾)で自殺した。
鷲城は思川(おもいがわ)や谷地・低湿地帯に囲まれた要害で、東西約400m、南北約600mで、中城と外城との2つの郭からなり、当時としては広大な城郭であった。中城の空堀・土塁が明瞭に残存し、鷲城の名の由来となった鷲神社が鎮座している。南北朝時代の城郭がこれほどよく遺存し、関連する文献資料が多数伝来しているのは極めて稀な例で、貴重な史跡と言えるであろう。
『「現地説明板」、「戦国大名家総覧(秋田書店刊)」参照』
現況・登城記・感想等
鷲城は、中城と外城の2つの郭からなり、小山総合公園の北東の森の中に、中城の遺構が実に良好に残っている。
鷲神社のある中城の多くは、だだっ広い畑地になっており、その畑地の南側を取り囲むように土塁が巡っている。
その土塁の外(南)側には、幅約10m、深さ約6mもある大規模な空堀が明瞭に残っており、当城址の最大の見所であろう。
外城は、ほとんど宅地化しているものの、土塁や櫓台跡が部分的に残っているらしいが見逃してしまった(;>_<;)。
(2007/06/24登城して)
ギャラリー
鷲城縄張略図(現地説明板より)
鷲城は思川や谷地・低湿地に囲まれた要害で、東西約400m、南北約600mで、中城と外城の2つの郭からなる。2つの郭は湾曲した土塁と空堀で区画されている。空堀の幅は約10m、深さは約6mでやや薬研堀状を呈している。
㊧鷲神社参道入口=鷲城(中城)への登城口、㊨その横に建つ石碑
中城とそれを囲む土塁
中城の多くは、だだっ広い畑地になっており、その畑地の南側を取り囲むように土塁が巡っている。
横矢(中城西側)
「横矢」とあるが戦国期のようなはっきりしたものではなく、虎口の頭上を押さえる櫓台のような感じだ。
中城西側の土塁と堀(右側の土塁外側は総合公園になる)
この堀はなかなかのもので、最初にこれを見つけた時は感激した。往時は思川の水が曳かれていたのかも?
中城南側の虎口?
この櫓台のような立派な土塁ですが、どうも想い出せない。縄張略図にある中城南側の虎口かな?
中城と外城を区画する南側の土塁と堀
この土塁と空堀が鷲城址の最大の見所であろう。左側土塁上までは7mほどはあると思われる。右側が外城になるが、右の道は後世(最近)のものであろう。