下野 森田城(那須烏山市)

本丸土塁と虎口

那須与一の長兄光隆(森田氏を称す)が築いた城

別名

今宮台城、龍崖城

所在地

栃木県那須烏山市森田
(芳朝寺:那須烏山市森田389、TEL0287-88-7300)の東側の山

形状

山城

現状・遺構等

現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、空堀、堀切、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2008/01/15

歴史等

文治3年(1187)、那須資隆の長男光隆がこの地を分知され、森田城を築き居住し、以来森田氏を称したという。
那須資隆は、那須氏を初めて称した人で、那須与一宗隆はその11男である。
以来、那須氏10氏の一つ森田氏累代の居城として続いた。
しかし、天正18年(1590)、那須氏は豊臣秀吉の小田原征伐に遅参したため、烏山城開城とともに、 森田城も開城し、廃城となった。
城は、丘陵頂部から麓にかけて利用した複郭式山城で、城の前後を荒川が蛇行しており、要害となっている。郭内の大きさは、南北約180m、 東西約110mで、山頂に本丸を構築し、その周囲に2重ないし3重の土塁で空堀を設け、竪堀を築いている。
『現地本丸跡、芳子朝寺説明板より』

現況・登城記・感想等

森田城跡は、規模は小さいながらも、土塁や空堀等がよく残り、それなりに見応えのある城であった。
ただ、真冬にも関わらず、本丸周辺の雑草があまりにもひどく、入って行けない所が多いのは残念だった。
尚、山麓(登城道の途中)に光隆と大田原氏累代(江戸期に森田を分知され小塙に森田陣屋を構えて居住)の墓碑がある。
(2008/01/15登城して)

ギャラリー

那須光隆と大田原氏累代の墓碑
山麓(登城道の途中)に光隆と大田原氏累代(江戸期に森田を分知され小塙に森田陣屋を構えて居住) の墓碑がある。

登城道(堀底道)

本丸下の帯曲輪へ
手前に空堀があり、虎口を入ると、本丸下の帯曲輪へと出る。

本丸へと
本丸と帯曲輪の段差は2~3m程度。本丸に説明板が設置されている。

本丸土塁
本丸は土塁で囲まれていたようで、土塁が一部残っている。尚、本丸は、ほとんどの部分が雑草で覆われている。

本丸下の帯曲輪
本丸下には帯曲輪が巡っている。ここからの眺望はなかなかよい。真冬にも関わらず、 本丸周辺は雑草があまりにもひどく、入って行けない所が多いのは残念だった。

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コメント

森田賢守(2012/11/23)

私の氏名は、森田と申します。住所は茨城県土浦市ですが、発祥地は筑波山の麓です。その先が不明なのでルーツを調べていたところ森田という地名があることをしりました。
全国には、森田という氏名の方は沢山いますので全然関係ないのかもしれませんが、私が住んでいる土浦とさほど遠くもないので興味をもっています。また昔は時の地名を苗字にしたと聞いていきす。何か関係するてがかりがありましたならお知らせください。

タクジロー(2012/11/24)

森田賢守さま
当サイトへのご訪問ありがとうございます。
確かに、苗字は地名からとることが多かったようですので、関係あるかもしれませんね。
発祥地にある、元々の菩提寺が分かれば、そこに過去帳があるかもしれませんね。
あるいは、芳朝寺に何らかの資料があるかもとも思いますが、難しいかもしれませんね。
お役にたてなくて申し訳ありません。

森田 源美(2016/05/17)

突然のコメントで失礼いたします。
 森田賢守の従兄です、最近賢守から森田家は、森田城の類系ではないかと聞かされました。確かに、親戚関係には大関、皆川や佐竹系の武家であった家ばかりですから信憑性が高いかも。
 当家は、筑波山神社の里宮である「六所大神宮」の祝部(新家)として派遣されたのではないかと、糸賀常盤大学教授などが申されていたのですが、寛正六年の古文書では、大世話人と記されているが他の文書から代々「彌左門」と称し世話人役でした。江戸時代の蔵書の裏には、森田の姓が記されています。
 菩提寺は江戸時代の火災で、過去帳は寛文八年までしか,遡れません。
何かの資料があればお知らせいただければとコメントしました。

タクジロー(2016/05/26)

森田源美さま
当サイトへのご訪問ありがとうございます。
海外旅行(南イタリア・シチリア・マルタ)へ行っていたため、返信が遅くなり申し訳ありませんでした。
資料は、残念ながら持ち合わせていません。
今後とも宜しくお願い致します。

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