赤見城保育園の周囲をめぐる土塁
藤姓足利俊綱が築城、滅亡後、戸賀崎氏の居城を経て佐野氏の支城となる
所在地
栃木県佐野市赤見町3572赤見城保育園(TEL:0283-25-2221)
形状
平城
現状・遺構等
現状:保育園、宅地、田園
遺構等:曲輪、土塁、水堀、標柱、縄張図石碑
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2008/02/28
歴史等
赤見城は、藤姓足利氏の足利俊綱が、安元元年(1175)に築城を始め、治承2年(1178)に完成し、居城したと云われている。
治承5年(1181)、志田義広が甥の源頼朝に背いて兵を挙げると、足利俊綱は子の忠綱とともにこれに応じた。しかし、
俊綱の軍勢が小山に到着する前に、義広の軍勢は小山勢のために野木宮の戦いで敗退していた。俊綱は頼朝の怒りを買って、頼朝方の千葉常胤・
梶原景季らに攻められ、俊綱は逃亡の途中、頼朝に内通していた俊綱の家臣桐生六郎に殺害され、藤姓足利氏は没落した。
その後、建久元年(1190)に戸賀崎義宗が赤見城主となり、城を再興した。以後、戸賀崎氏の子孫が居城したが、戦国時代に入って、
永禄2年(1559)、義宗の子孫赤見伊賀守が、唐沢山城主佐野泰綱に叛いたため、
泰綱の夜襲にあって敗れ、常陸に逃亡した。
以後、慶長19年(1614)に佐野氏が改易されるまで、佐野氏の支城となった。
『とちぎの古城を歩く・塙静夫著(下野新聞社刊)より』
現況・登城記・感想等
赤見城本丸跡は赤見城保育園となり、その運動場(遊戯場)を土塁と水堀が囲んでいる。往時は、土塁は一周していたのではと思われるが、
南東部は壊されて?欠損し、そこに保育園の建物が建ち、その脇に城縄張図が彫られた石碑が建っている。その縄張図によると、赤見城は、
本丸とその北に北の丸、東に二の丸、南に三の丸からなる複郭式であったようである。
本丸を囲む土塁は、保育園の建つ南東部以外は、ほぼ完存しており、高さは約4m、水面からは5m以上あると思われる。
また、土塁上に登り、歩いて巡ることも出来る。土塁上から眺める西側の二重土塁とその間の水堀は、なかなか見応えがある。
このあたりは水面からの高さは6mほどはあるのではと思われる。また、北西部は、土塁が三重になって残っている。
小規模ながらも、見応えのある城址である。
(2008/02/28登城して)
ギャラリー
縄張図(現地石碑より)
保育園脇に建つ石碑と標柱(背後は本丸跡を囲む土塁、右下は水堀跡)
左上に見える階段から土塁上に登り、歩いて巡ることができる。
本丸跡を囲む土塁(北東隅土塁上から撮影)
赤見城本丸跡は赤見城保育園となり、その運動場(遊戯場)を土塁が囲んでいる。往時は、土塁は一周していたのではと思われるが、
南東部は壊されて?欠損し、そこに保育園(写真左奥)が建っている。
北側の土塁と堀
土塁の高さは4mほどある。写真右奥の土橋の向こうは、水を湛えている。
北側の土塁(土塁上から撮影)
西側の土塁と堀
土塁上から眺める西側の二重土塁とその間の水堀は、なかなか見応えがある。
このあたりの土塁は水面からの高さは6mほどはあるのではと思われる。
北西部の三重土塁
写真では非常に見辛いが、北西部は三重の土塁が残っている。