下野 茂木城(茂木町)

出丸西側の空堀に架かる木橋

宇都宮氏一門・茂木氏17代400年間の居城

読み方

もてぎじょう

別名

桔梗城

所在地

栃木県芳賀郡茂木町茂木
【アクセス】
茂木駅の東100m弱にある茂木駅入口信号を3~400mほど北上するとT字交差点・大町信号(ここから北方面に茂木城址の巨大な城壁が見える)に突き当たる。 そこを右折し、すぐの道を左折すると「城山公園」の案内板がある。そこからは次々と案内板が設置されており、それに従って登って行く。 駐車場は第1~第3まであるが、最も上にある第3駐車場が広い。

形状

平山城(標高約165m、比高約80m)

現状・遺構等

【現状】城址公園、宅地他
【遺構等】曲輪、土塁、空堀、堀切、模擬櫓(見晴台)、石碑、標柱、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2009/02/19

歴史等

茂木城のはじまりは、宇都宮宗綱の二男・八田知家(嫡流は常陸小田氏)が奥州藤原氏討伐の功により、本木(茂木)郡の地頭職に任命され、その後、建久年間(1190~99)に三男の知基が館を築いて移り住み、茂木と名乗り、茂木氏の始祖になった。一説には知家が最初に館を構えたとも言われる。
その後、茂木氏は宇都宮家一門の中でも、次第に大きな勢力を持っていき城(館)を整備拡張していった。
建武3年(1336)、南北朝争乱の時代に入ると、茂木知貞は、小田治久と共に北朝方につき、小山・宇都宮と転戦した。その留守の時の同年11月、南朝北畠顕家軍の攻撃を受け、いったん落城したが、城を守っていた茂木氏の一族祐恵は近隣の武士の協力を得て間もなく奪回した。
その後、永享12年(1440)の*結城合戦では、足利持氏の遺児春王丸・安王丸が日光山から茂木城に入り、幕府に反旗を翻したとの説もある。
茂木氏は、知基から治良まで17代(16代とも)にわたり茂木城に居城したが、天正13年(1585)北条氏政に攻められ落城した。
その後、佐竹義重によって城は奪回されたが、文禄3年(1594)、治良は佐竹義重の命により常陸小川城(茨城県東茨城郡)に移ったため、約400年におよぶ茂木氏の支配は終わった。
慶長7年(1602)、治良は、徳川家康の命により、佐竹氏らとともに秋田に移封となった。
その後、茂木領内は同15年(1610)、細川忠興の弟興元が1万6千石で入封し、山麓に陣屋(茂木陣屋) を構えて茂木藩を立藩し、茂木城は廃された。
『「とちぎの古城を歩く」、「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」、「現地説明板」参照』

【結城合戦】
*永享の乱の翌年、結城氏朝が持氏の遺児春王丸・安王丸・永寿丸を擁して挙兵したが、嘉吉元年(1441)4月、攻防8ヶ月の末、結城城は陥落した。春王丸と安王丸は殺されたが、まだ8歳と幼かった永寿丸は美濃の守護土岐氏に保護された。

【永享の乱】
鎌倉公方の初代は、足利尊氏の四男基氏で、以降、氏満、満兼、持氏と続く。持氏のとき、京都では5代将軍義量が亡くなった。前の将軍義持には義量のほかに男子がなく、義持の弟4人は出家しており、将軍位が空位となった。
将軍位を狙った持氏は、義持に急接近をはかったが、相手にされず、将軍には結局義持の弟4人が「クジ引き」で決めることになり、青蓮院義円(6代将軍義教)となった。
持氏は激怒し、将軍就任の祝賀会にも使者を送らず、年号が正長から永享に変っても新年号を用いないなど、幕府の指令は一切無視し、将軍家との亀裂は決定的となった。そればかりか、持氏暴走を諫める関東管領上杉憲実とも対立するようになった。
永享10年(1438)憲実は身の危険を覚え、本国上野に逃れた。憲実は幕府に救援を求めると、将軍義教は大軍で鎌倉を攻めさせた。そして、翌年2月持氏と子義久は自殺し、鎌倉府は4代90年余で壊滅した。

現況・登城記・感想等

茂木駅前信号の所から北方面を見ると、正面に巨大な壁がそそり立つ。それが茂木城址である。この光景を見ただけで、 茂木城が要害堅固な城であったということが分かる。
城址は、本丸・溜池・千人溜・出丸等々の城址南部が公園化されて非常に綺麗に整備され、また眺望もよく市民の憩いの広場となってはいるが、 土塁・空堀・堀切等の遺構も良好に残され、或いは復元されており見応え充分である。
欲を言えば、二の丸の北にある大規模な空堀辺りも、もう少し整備してもらえると、さらに見所が増えるのだが・・・。
(2009/02/19登城して)

ギャラリー

茂木城縄張略図(現地説明板より)
茂木城は、広大な台地の縁の部分に本丸以下、二の丸、三の丸、出丸等々の曲輪を配置し、それらに囲まれた一段低い中央部に非常に広い平坦部分があり、そこに千人溜まりや溜池などがあるという特徴的な縄張りである。尚、各曲輪間は全て空堀や水堀で区分けされている。
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T字交差点「大町信号前」から正面に茂木城址の巨大な壁を
この光景を見ただけで、茂木城が要害堅固な城であったということが理解出来ると共に登城する嬉しさが込上げてきた。
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第3駐車場から見た本丸
本丸城塁は見事に形成されている。本丸へは東側(写真左側)の虎口から入城する。
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本丸虎口
本丸虎口へは土橋様の坂を登って行く。シンプルな平虎口のように見えなくもないが、両脇が櫓台のように張り出して、横矢が掛かっている。
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本丸
本丸跡は30m×100mほどの広さがあり、児童用遊具と東屋が設置されている。本丸周囲は、西側から北部・東部にかけて高さ3mほどの土塁が巡っている。
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本丸西角の土塁
西隅はやや広く望楼があったようだが、現在は「御嶽山三社」の碑(左上)が立っている。土塁下に城址碑もあるがツツジで隠れてしまっている。城址碑には。茂木氏や城についての説明が刻まれているが、例によって刻字は読みきれない。
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本丸西の笹曲輪と堀切
本丸西側は堀切で断ち切られ、その向こうには正方形に近い土壇(笹曲輪)がある。堀切の深さは8mほどあり、端に立って下を覗くと怖いほどだ。
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本丸と笹曲輪間の堀切
上写真の堀切である。この写真は本丸南下の忠霊搭のところから傾斜40度近いところを強引に登って撮ったが、実に見応えのある堀切である。
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本丸からの眺望
本丸南から眼下に茂木町を見下ろしたもの。絶景というほどではないが、眼下に町並み、遠くに山並みが見える光景は良いものだ。
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本丸北東部の水堀跡
往時は水堀になっていたのだろう。今は湿地帯になっているが菖蒲園のようで、木橋の遊歩道がついている。
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本丸北側(本丸と二の丸間)の堀
本丸(左)と二の丸(右)を断ち切っている堀切である。深さ7m、幅10mほどあり見応え充分だ。
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城址中央部
第3駐車場から城址中央部の広い平坦地の光景を撮ったもので、左の池が溜池、右側空地が千人溜、左奥の森が二の丸跡。千人溜も広くて、確かに千人ほどの兵士を集めることも出来るだろうが、その奥(西)の空地はもっと広い。全く説明がないが何の跡なんだろう。
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溜池(手前)と千人溜(奥)
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千人溜まり
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鏡ケ池
城の姫が流行病に罹り酷い痣が残った。殿は、それを哀れみ城内の鏡を全て処分したが、後日、姫がこの池に映った自分の顔を見て悲嘆のあまり池に身を投げた。その後、この池を鏡ケ池と言うようになったという秘話があるという。(現地説明板より)
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二の丸
二の丸は杉林になっている。
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二の丸北側の空堀
写真では全く分からないかもしれないが、この空堀はかなり大規模なものである。ここ辺りも、もう少し整備されていると有難いが・・・。無理だろうね!?
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出丸
北側から撮ったもの
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出丸上にて
出丸には芝生が敷き詰められ、テーブルと椅子が置かれている。南東方向(写真中央奥)に出丸下の帯曲輪の角部に建てられた模擬櫓(見晴台)の上部半分が見える。
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出丸南東下の模擬櫓(見晴台)
出丸の南東下には模擬櫓(見晴台)が建てられている。
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模擬櫓(見晴台)上からの眺望
見晴台から逆川と茂木の町並み、遠くに山並みが見える眺望はなかなかのものだ。
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出丸東側の帯曲輪
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出丸西側の空堀
出丸西側には折のある見事な土塁と空堀が残る。この辺りは、発掘・復元されたのだろう。
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出丸西側空堀に架かる木橋
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大手門辺りから本丸を
説明板の略図によるとこの辺りが大手門であろうか。ここから眺める本丸も絵になる。
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大手道と本丸遠景
この辺りは大手門の少し北東になるが、ここから眺める本丸の姿は素晴らしい。
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馬場跡
馬場の辺りや三の丸辺りは全く整備がされず、雑木林と枯草で・・・。
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忠霊搭と本丸南西城壁と堀切を
右上が本丸、左上に堀切が見える。忠霊搭裏から、傾斜40度近いところを強引に登って行き。堀切の写真を撮った。
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城址全景(南西から見上げる)
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コメント

茂木 正(2020/05/19)

 私もモテギ と申します。何時の頃にここ本庄の地に住み着いたのかは定かでは有りませんが、江戸初期の頃には住んでいて十数代前の先祖がわかっていますのですが、それ以前はよくわかりません。ただこの町にも茂木(モギ)さんもいて町中の一部にだけ私どもモテギ 一族が江戸の頃より住んでいます。一度だけ茂木城を訪ねたことがありますが、感慨深いものがありました。歴史的な講演等ありましたらぜひ出かけてみたいと思います。

タクジロー(2020/05/23)

茂木さま
当サイトへのご訪問とコメント、ありがとうございます。
一般的に、栃木県の方はモテギさんが多く、千葉県など他はモギさんがおおいような気がしますが如何でしょうか?
私の現役時代の会社にも茂木さんが何人かいましたが、モテギさん2人は、皆さん栃木県出身でした。
今後も、時々、当サイトへのご訪問とコメントをお待ちしておりますので、宜しくお願い致します。

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