下野 千本城(茂木町)

屋敷跡から曲輪を仕切る土塁を

那須為隆(与一の兄)が築城、千本氏代々の城

別名

教ケ岡城、須藤城

所在地

栃木県芳賀郡茂木町町田1380
【アクセス】
*須藤小学校の北約600mが城跡。国道294号線を茂木から烏山に向かって北進し、「千本交差点」を右折し、700mほど東進すると、左へ曲がる道があり、 左前に「千本城跡」の小さな案内板がある。そこを左折し、しばらく(1kmほど?)走ると直進する細い路地と、 道なりに右に大きくカーブする道の二股へ出る。そこに 「千本城跡0.8キロ」の小さな案内板があるが、その細い路地 (やっと車が一台だけ通れるような細い道)へと直進する。その細い道は、滅多に車は通らないようだが、私は水道局の工事用車と2回もすれ違って大変だった。100~200mほど登ると左手に千本・城山配水場があり、 車が2~3台程度置ける。
*須藤小学校:栃木県芳賀郡茂木町千本457、電話0285-63-0457

所要時間

今回の見学時間は40分弱でした。

形状

山城(標高:240m、比高:大手口のあった大門から約110m)

現状・遺構等

【現状】山林、畑地、羽黒神社
【遺構等】曲輪、土塁、堀切、石柱、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2009/02/19

歴史等

千本城は、那須資隆の10男・為隆(与一宗隆の兄)が建久8年(1197)に那須氏南端の守りとして築城したといわれている。
為隆の兄9人は平氏に従ったが、為隆と宗隆は源氏に従い源義経の配下として活躍し、為隆はその功により須藤の地(千本・町田・九石・大瀬・所草など)を与えられ、須藤(千本)氏の祖となり、建久元年(1190)に所草(ところくさ)に館を構え、さらに同4年(1193)には九石(さざらし)に九石城を築いた。
しかし、茂木領に接近していたので、4年ほどで教ケ岡城(千本城)を築いて移ったという。尚、千本の名は、須藤氏の上屋敷が京都の千本通りにあったことから名乗ったといわれる。
その後、千本城には子孫代々が居城した。
元弘3年(1333)、5代経隆は、新田義貞に従い、茂木知貞と共に鎌倉を攻め、幕府を滅亡させるほどの功績を残した。
千本氏中興の城主といわれる10代資持は、福原城(大田原市)を拠点とする上那須氏と烏山城 (那須烏山市)を拠点とする下那須氏に分裂して抗争したとき、下那須氏を支えて那須七騎の旗頭として活躍した。
天文18年(1549)、那須氏は宇都宮氏との五月坂の戦いの後、惣領高資と弟資胤との間に内紛が起こった。この時、13代千本城主資俊は資胤を助け、同20年(1551)正月、高資を千本城に誘い出し殺害した。
その後、資俊の嫡子資政は黒羽城主大関高増の娘を妻とし、一女をもうけたが、嫁姑の関係が悪く離縁した。
これに怒った高増は、宗家の那須資晴を味方に付けるべく、資晴の叔父高資が千本氏に殺害された恨みを晴らすことを勧めた。そして天正13年(1585)12月、高増は滝の大平寺別当に協力を要請し、千本資俊・資政父子を寺へ誘い出し謀殺した。
ここで千本氏は、一時断絶したが、茂木氏から義政が千本大和守義隆と称し、千本城に入った。ここに茂木系千本氏が誕生した。
義隆は、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐に従い、芳賀郡内に2070石の朱印地を与えられた。
その子・義定は関ヶ原合戦で徳川家康に従い、慶長7年(1602)加増を受け3370石の大身旗本となり、大門に陣屋を設け家老大谷津氏をおき支配させ、自らは江戸屋敷で生活した。
以後、千本氏は徳川旗本として存続するが、宗家は義等のとき嗣子なくして断絶した。しかし、義等の弟和隆が残り、旗本として明治維新を迎えている。
尚、千本城は天正13年(1585)資俊のとき落城し、寛永5年(1628)義等のとき炎上したという。
『「とちぎの古城を歩く・塙静夫著(下野新聞社刊)」、「現地説明板」より』

現況・登城記・感想等

千本城は北端に配置された本丸に緒曲輪が連結する南北に長い連郭式縄張りであるが、本丸以下諸曲輪の側面に腰曲輪や帯曲輪、外郭など複数の曲輪を配置した複郭式山城といえるだろう。
城址の北部分の本丸と二の丸周辺は曲輪・土塁・堀切等の遺構が良好に残り見応えがある。
城域の南部のほぼ半分の屋敷跡は、今は広々とした畑地となっているが、ここから眺める城の主郭部分(二の丸・本丸)方面の光景は城址らしい雰囲気が感じ取れ気に入った。
尚、城跡は全体的に下草も綺麗に刈られ気持ちよく廻れる。
(2009/02/19登城して)

ギャラリー

千本城鳥瞰図(余湖くんのホームページより)
千本城は北端に配置された本丸に緒曲輪が連結する南北に長い連郭式縄張りであるが、本丸以下諸曲輪の側面に腰曲輪や帯曲輪、外郭など複数の曲輪を配置した複郭式山城といえるだろう。
茂木千本城鳥瞰図

駐車場所(外郭下?)
車一台がやっと通れるほどの二度も工事車とすれ違いながら坂道を登って来ると、この水道局の施設がある。ここのちょっとした空地(2~3台ほど駐車可能)に車を停めた。平日の為、工事の方の車(写真)があったが、何とか一台は停めることの出来るスペース(左の小屋の前)があったので拝借した。写真奥の土塁は外郭だろうか?
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登城口
駐車場所から北へ進むと城址碑と縄張図付きの説明板と本丸跡に鎮座する羽黒神社の碑が立っている。そこを右に曲がると両側にしっかりした土塁が設けられた虎口に出る。
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屋敷跡
虎口を入ると、目の前に広~い畑が現れ、遠くに丘が見える。車で登ってきたので、あまり感じられないが、比高約110mある。そんな所に、よくこれだけ広い削平地を造成したものだ。畑には土塁(写真奥)が突き出て屋敷跡が南北に2分されている。
この土塁は何のために築いたのだろうか? 単に防衛の為に出入口を狭くしているだけなのか? 西側(写真左側)へと高くなっているが、高い部分に櫓でも建っていたのであろうか??

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北部屋敷跡から主郭方面を
土塁の東側(右側)脇を抜けて北部分の屋敷跡へ行くと、二の丸(左)と本丸(二の丸の上)が見えてきて、いよいよ城主要部へ突入だ。
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二の丸虎口(二の丸門跡)
二の丸へは坂虎口になり、道の両側は少し窪んでいる。空堀があったのであろうか? 
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二の丸南東部の土塁
二の丸は東・西・南の3方に高さ2m強の土塁が巡っている。
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本丸南面の切岸(二の丸から撮影)
二の丸の北側には本丸がある。本丸切岸は高さ5m強あり威圧感があり見応え充分だ。
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馬出し土塁?
二の丸の西側の高さ4mほどの土塁は馬出しの土塁のようにコの字形なっている。
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千人溜?
上写真の土塁脇を抜けると、千人溜のような広い曲輪があり、周囲を1~2mほどの土塁が取り巻いている。
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本丸虎口
2つ上写真の土塁(馬出しの土塁?)の階段を登ると本丸虎口へ出る。虎口手前の両側(特に左側)は堀が食い込んでおり幅が広めの土橋になっている。
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本丸虎口手前の土橋から千人溜?方面を 
上写真の土橋の左側の光景である。右土塁上は本丸で左奥は武者溜?
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本丸
本丸は南北135m、東西16~32mの南北に長い曲輪で、羽黒神社本殿が鎮座する北側部分との間が土塁による区画されている。土塁中央部は喰い違い虎口になっているようだ。尚、当写真は本丸虎口を入ってすぐ北方面を撮ったものである。
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本丸を2分する土塁と喰い違い虎口
本丸は、土塁で北部と南部に1:3ほどの広さに分けられており、北部分(写真奥)には、現在、村社である羽黒神社が鎮座している。
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羽黒神社(本丸北部分)
本丸北部分に鎮座する羽黒神社の背後を取り巻く土塁が良好に残っている。
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本丸周囲の土塁(南西部)
本丸は最高所に置かれ、高さ2mほどの土塁が巡っている。
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本丸周囲の土塁(東側)
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本丸東側の腰曲輪
本丸周辺には腰曲輪が設けられ、今尚良好に残っている。
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本丸北の堀切
本丸の北の堀切も良好に残っている。堀切の向こう側はかなり狭いが何らかの建物があったのだろうか?
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