小沢城址北側の折れのある土塁と堀
三浦系・沼田景朝が築城、幕岩城へ移るまでの4代114年間の沼田氏の居城
別名
沼田館、沼田城
所在地
沼田市町田町甲2038ほか、法城院
【アクセス】
薄根中学校の東100mほどにあります。
JR沼田駅の西を通る国道291号線を(沼田駅近くから)1.3kmほど北上しすると硯田信号があります。そこを斜め右へ入り県道265号線へ出て北東方面へ約2.2kmほど進むと善桂寺信号へ出ます。そこを右折し500mほど南進すると右手(西側)に「沼田平八郎景義之墓」の案内板があり、斜め右上へと急な坂道があります。その坂道を登り切った処が城址で、法然院という無人のお寺があり、その手前に城址碑と説明板が立っています。駐車場所は充分あります。
薄根中学校:沼田市善桂寺町40番地、電話0278-22-3180
形状
崖端城
現状・遺構等
【現状】 法城院、畑地ほか
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀、標柱、説明板、沼田平八郎景義之墓
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2016/10/28
歴史等
小沢城は三浦系・沼田景朝が応永12年(1405)に荘田城から移り、小沢川の崖端に築いた城である。永正16年(1519)に幕岩城へ移るまでの4代114年間の居城であった。
京都の禅僧・万里集九(ばんりしゅうく)の旅行記には、『長享2年(1488)9月30日、沼田館に着き鍛冶屋に宿る』とある。小沢城は沼田館・沼田城とも呼ばれていた。
『「現地説明板」、「沼田市公式ホームページ」より』
現況・登城記・感想等
急な坂道を登り切ると、広大な台地ににポツンと無人のお寺「法城院」があり、周囲は畑になっています。 その台地の周囲を眺めると土塁が巡っているのが分かります。
法城院が建つ一帯が本郭(実城)で、その北側と西側を中城が囲む梯郭式城郭です。中城の大部分は畑になっています。
中城北東部の土塁沿いは墓地などになっていますが、その背後には長く延びる高さ3mほどある立派な土塁が残っています。
土塁に登ってみると、土塁の外側にこれまた立派なは空堀が残り、途中に折れも入っていてかっこいいです。
登城前は、これほど遺構が良好に残っているとは思っていなかったので得をした気分です。
(2016/10/28登城して)
ギャラリー
小沢城鳥瞰図(余湖君のお城のページより)
法城院が建つ一帯が本郭(実城)で、その北側と西側を中城が囲む梯郭式城郭です。本郭(実城)周囲の堀(内堀)は消失していますが、 外堀は良好に残っています。
城址碑と説明板
「沼田平八郎景義之墓」の案内板が立つ急な坂道を登り切ると、広大な台地ににポツンと無人のお寺「法城院」が建っており、その手前に城址碑と説明板が立っています。
中城と土塁
法城院の西側と北側が中城ですが、その大部分が畑地になっています。そして、その周囲を立派な土塁が取り囲んでいます。当写真は北西部分を撮ったものです。
沼田平八郎景義之墓
法城院の北(即ち、中城の北東部)には沼田大明神が建ち、その裏に沼田氏最後の城主沼田平八郎景義の墓があります。
「上杉謙信没後、沼田城は北条氏邦に奪われ、さらに真田昌幸が所領した。景義は天正9年(1581)3月挙兵し、城奪還直前となったが、同月14日昌幸の謀計に乗った伯父金子に欺かれ、沼田城内水の手曲輪に入り金子らに殺害された。景義42歳、沼田氏は亡びた。昌幸は甲府から来て首実検し、沼田氏旧臣の離反を恐れ、景義の遺骸を此所に葬り沼田大明神として祀った。(現地説明板より)
土塁と墓地
墓地の背後(北側)には立派な土塁が残っています。内側からでも高さ3mほどあります。
土塁と堀
土塁に登ってみると、その外側に空堀を見付けました。空堀は幅5m以上あり折れもある見応えのあるものです。