本丸を東西2段の高さに分ける石塁と虎口
藤原秀郷の流れをくむ東毛の豪族大胡氏の城
読み方
おおごじょう
所在地
群馬県前橋市河原浜町600−1
【アクセス】
大胡神社のすぐ南側で、前橋市役所大胡支所の北約200m。
城址公園の二ノ丸跡に駐車スペースあり。
大胡神社:前橋市河原浜町615、電話: 027-283-2616
前橋市大胡支所:前橋市堀越町1115、電話: 027-283-1111
形状
平山城
現状・遺構
【現状】城址公園ほか
【遺構等】曲輪、土塁、石垣、空堀、虎口、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2006/09/30
歴史等
大胡城は、天文年間(1532~1555年)に築城されたといわれる。城主は、藤原秀郷の流れをくむ地元東毛の豪族大胡氏であった。戦国時代は、山内上杉家に属していたが、川越夜戦で山内上杉家の勢力がなくなると、北条氏に攻められ開城する。
北条氏の家臣になった大胡重行は、天文年間(1532年~1555年)江戸の牛込に牛込城を築き移る。大胡城は北条直轄の城となるが、豊臣秀吉の小田原攻めで落城。
天正18年(1890)徳川家康の関東入部により牧野氏は大胡藩2万石に封ぜられ、康成、忠成二代の居城となった。元和2年(1616)に長嶺へ転封後、前橋藩領となり、酒井氏時代に城代が置かれたが、寛延2年(1749)姫路へ転封し廃城となった。
城址は南北に走る丘陵上にある平山城で、本丸を中心に二ノ丸を囲郭的に配し、北に北城(越中屋敷)、近戸曲輪、南に三、四ノ曲輪があり、東は荒砥川が流れ、その間に根小屋、西には西曲輪の平野部が附加され、南北670m、東西最大巾310mの規模を測り、枡形門、水ノ手門虎口、空堀、土塁等の跡が良く残っている。
『現地案内板、サイト「戦国時代の城」より』
現況・登城記・感想等
大胡城は上毛電鉄「大胡駅」を北へ1kmほど行った高台の上にあり、城跡の下のトンネルをくぐり抜けた所が二の丸跡で、広い場所があり駐車が出来る。
本丸は二段になっており、東側半分が石塁で一段高くなっており、周囲をかなり高い土塁で囲まれている。おそらく、本丸東端からの眺望は良いのであろうが強烈な藪に阻まれて本丸東端までは行けなかった(;>_<;)。
二の丸跡には食違い虎口(枡形門)の石垣が良く残っていたが、これまた酷い藪で蛇(場合によってはマムシ)が出そうで、虎口外側まではとても出て行って外側からの写真を撮る勇気はなかった。
また、本丸西側周囲には、かなり大きな規模の見応えのある空堀が良好に残っている。
強烈な藪に阻まれた登城ではあったが、町中の低い丘の上の城址としては、遺構がよく残っており、それなりに満足した。草が枯れた冬にやってくると良いだろうな。
(2006/09/30登城して)
ギャラリー
大胡城縄張図(余湖くんのホームページより)
大胡城は南北に走る丘陵上にある平山城で、本丸を中心に二ノ丸を囲郭的に配し、北に北城(越中屋敷)、近戸曲輪、南に三、四ノ曲輪があり、東は荒砥川が流れ、その間に根小屋、西には西曲輪の平野部が附加され、南北670m、東西最大巾310mの規模を測り、枡形門、水ノ手門虎口、空堀、土塁等の跡が良く残っている。
本丸を東西2段の高さに分ける石塁
本丸をL字形に囲む二の丸跡に駐車し、本丸南側から本丸へ向かいます。本丸は石塁によって東西2段の高さに分かれている。写真右手前が本丸東側への虎口になっている。
本丸東側
本丸東側は特に藪が強烈で、本丸東端を目指して入っていったが、眼下の眺望を見ずに途中で引き返す羽目になってしまった(/。ヽ)。
本丸を囲む土塁
本丸は、かなり高い土塁で囲まれている。特に、西側・北側には高い土塁が残っている。
本丸西側の土塁
本丸への西虎口と土橋
本丸の北西部に二の丸から本丸への土橋と虎口があったが、これは当時のものではなく、本丸内の草刈等々の整備の為に最近になって造成されて切り広げられたもののようだ。しかし土塁の高さは、なかなかのものである。
本丸西側の空堀
本丸西側周囲には、かなり大きな規模の見応えのある空堀が良好に残っている。
土橋から本丸西側空堀の北方面を
二ノ丸桝形門跡
酷い藪で蛇(場合によってはマムシ)が出そうで、虎口外側まではとても出て行って外側からの写真を撮る勇気はなかった。