移築復元された乾櫓と東門
徳川四天王の一人・井伊直政が箕輪城から「和田」に移り再築、「高崎城」と改める
所在地
群馬県高崎市高松町
形状
平城
現状・遺構等
現状:高崎城址公園、市役所、音楽ホール他
遺構等:移築復元乾櫓(下の石垣等は模擬)、復元東門、土塁、水堀、説明碑
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2001/08/17
2008/06/17
歴史等
高崎の地は古くは和田と呼ばれ、室町時代中期に和田義信が和田城を築城した。以後、戦国時代まで和田氏代々の居城であったが、
天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原攻めで、北条氏と運命を共にして滅亡した。
同年、秀吉によって徳川家康が関東に移封されると、家康は自らの本拠を江戸城に定めるとともに、重臣たちを関東各地に封じて、
領国を固めている。中でも重要な役割を負ったのは井伊直政で、西上野の中心にある箕輪城
(群馬県蓑郷町)を改修して居城した。
しかし慶長3年(1598)、関東と上信越を結ぶ交通の要衝の地の和田に移り、地名も高崎と改め、高崎城の築城に着工した。
そして碓氷峠や三国峠から来襲する仮想敵に備え、北関東防衛の中核を担った。
城の縄張は、烏川を背にした、半輪郭式である。三の丸が直線的に構成されているのに対して、二の丸から本丸周囲にかけての曲輪は、
複雑に屈曲し、折、歪、馬出しを組み合わせて容易に本丸へ敵を近づかせない構造になっている。即ち、三の丸は、防御よりも、攻城軍に対し、
いつでも外に出て、その側背をつけるようにした陽の城で、その内側に鉄壁の防御を施した陰の城を持つ構造である。また、
直政は城下町の構築に励み、現在の高崎市隆盛の基礎を固めた。
直政は関ヶ原の戦後の慶長5年(1600)11月、西国への備えとして、石田三成の居城であった近江国佐和山城に移ることになり、
その後、高崎城には酒井氏、戸田松平氏、藤井松平氏、安藤氏、長沢松平氏、間部氏などを経て、享保2年(1717)
越後村上から長沢松平氏が7万2千石で再封され、以後、高崎城は長沢松平氏10代、約150年の居城として明治維新を迎えた。
『「日本の名城・古城もの知り辞典(主婦と生活社刊)」、「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」参照』
現況・登城記・感想等
往年の名城も、今では特に印象の残る城址ではない。
一応、復元東門と乾櫓のあるあたりの水堀前からの情景が多少は風情を感じさせるかなといったところである。
市街地のど真ん中だからしょうがないのかなあ。
(2001/08/17、2008/06/17訪城して)
ギャラリー
高崎城縄張図(現地説明板より) ~クリックにて拡大画面に~
城の縄張は、烏川を背にした、半輪郭式である。三の丸が直線的に構成されているのに対して、
二の丸から本丸周囲にかけての曲輪は、複雑に屈曲し、折、歪、馬出しを組み合わせて容易に本丸へ敵を近づかせない構造になっている。即ち、
三の丸は、防御よりも、攻城軍に対し、いつでも外に出て、その側背をつけるようにした陽の城で、
その内側に鉄壁の防御を施した陰の城を持つ構造である。
本丸乾櫓(右奥は三の丸東門)
本丸乾(北西)の土居上にあった隅櫓で、明治初年に払い下げられて納屋に用いられていたものを、
所有者の梅山太平氏より寄付され、現在の場所に復元された。元々は、1m足らずの高石台の上に築かれていたもので、石垣および、
両側の塗り込め塀は修景のためのものであり、模擬である 。また、屋根のしゃちほこも模造である。
三の丸東門
篭の通れる潜り戸と張り出した無双窓の番所付きの長屋門。壁面下見板張りで通用門として使用。
乾櫓と同じ処に払下げられていたものを移築復元したものである。
三の丸東側の水堀
この三の丸の水堀はよく残っており、幅15mほどあるが、
往時はもう5~6m広かったようである。左側の道路拡張により狭くなったとのことである。
三の丸東側の土塁