上野 倉賀野城(高崎市)

雁児童公園に建つ城址碑

武田・上杉・北条氏抗争の倉賀野氏4百余年の城

所在地

群馬県高崎市倉賀野(雁児童公園)
倉賀野中学(倉賀野1270、TEL027-346-2308)の東南100mほどの所

形状

崖端城

現状・遺構

現状:雁児童公園、住宅地
遺構等:石碑、説明板のみ

満足度

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訪城日

2008/01/08

歴史等

治承年間(1177~1180)、武蔵児玉党の支流秩父三郎高俊がこの地に居館を構え、倉賀野氏を名乗った。応永年中 (1394~1427)に至り、室町幕府が衰え、戦雲が諸国を被うようにななり、倉賀野三郎光行は防御が必要となり館を改修した。
上州八家の一つ倉賀野三河守は、戦国時代は山内上杉氏に仕え、天文15年(1546)の「* 河越夜合戦」にも従軍し、討死した。その後は、金井秀景や須賀佐渡守をはじめとする「倉賀野党16騎」が城を守った。
西上州はその頃、武田・上杉の合戦場であり、倉賀野城は度々武田信玄に攻撃されたが、都度撃退しているが、永禄8年(1565) 遂に落城した。その間の永禄2年(1559)、信玄が板鼻に陣取っていたとき、金井秀景が信玄の陣に使し、倉賀野淡路守と改号されたとあり、 城内で内部分裂があったようである。
天正10年(1582)武田氏が滅亡すると、倉賀野氏は滝川一益に従ったが、本能寺の変により撤退すると、後北条氏に従った。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めにより、小田原城に籠城していた当主倉賀野秀景は討死し、倉賀野城も落城・廃城となった。
『現地説明板、石碑等参照』

【河越夜合戦】
後北条氏2代目氏綱死すとの情報が関八州を馳せ巡ると、氏綱に敗戦し世を去った扇谷上杉朝興の遺子朝定と、 その同族である平井城の関東管領山内上杉憲政が反応した。憲政は出陣に先立ち古河公方にも働きかけ戦列に加わらせた。ここに、扇谷・ 山内の両上杉勢6万5千、足利晴氏の公方勢2万、しめて8万5千の大軍団が河越城を完全に包囲した。
城を守るのは、 「*黄八幡」で有名な北条綱成以下3千であった。 北条氏康は5千の兵を率いて援軍に駆けつけたが、連合軍のあまりの人数に無血開城を条件に和平を申し入れたが (和平のふりをしたとも云われる)、北条方をみくびった連合軍は応じなかった。
氏康は4月20日夜、城内と密かに通じ、時を同じくして連合軍に襲い掛かった。数を頼んであなどっていた上に、烏合の衆の連合軍は、 数千の戦死者を出して逃げ去り、扇谷上杉朝定は討死し、扇谷上杉家は断絶した。これで後北条氏の関東での覇権が確立した。

【黄八幡】
北条綱成の父は、今川氏に仕えた福島正成である。甲斐の武田信虎との戦いで父を亡くし、綱成は小田原に移り北条氏綱に仕えた。やがて、 氏綱の娘と結婚し、福島の姓を改め北条を名のった。綱成は武勇をもって知られ、黄色の地に八幡と書かれた旗印を用いたことから、 その軍勢とともに、日頃「黄八幡(きはちまん)」と呼ばれた。

現況・登城記・感想等

倉賀野城址は、児童公園や宅地と化し、遺構は特に残っていない。
しかし、烏川の河岸段丘上にあり、児童公園から見下ろす情景は、まさに、往時ここに城があったことを偲ばせてくれる。
(2008/01/08登城して)

ギャラリー

本丸跡の児童公園から河岸下の烏川を
児童公園から見下ろす情景は、まさに、往時ここに城があったことを偲ばせてくれる。

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