本丸跡
関東管領山内上杉氏の配下真下氏の居城
別名
譲原城、下山城
所在地
群馬県藤岡市(旧鬼石町)譲原
形状
山城
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、空堀、堀切、土橋、城址名板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2008/01/15
歴史等
真下城(ましもじょう)は、天文年間(1532~1554))に真下伊豆守吉行により築城されたとされるが、承平5年(935)
に築かれたという説もあるようだ。平将門が平貞盛を追って、この地に来た時に要害の地と見て城を築いたという。
いずれにしても、真下氏が移り住んで来てから真下城と呼ばれるようになったのであろう。
そして天文年間には、真下氏は平井城に拠点を置く関東管領山内上杉氏の配下となり、
真下城も支城の一つとして機能していたのであろう。
『「サイト:里の風」、
「平井城址説明板」
参照』
現況・登城記・感想等
【現況】
真下城は、神流川と三波川の合流部に西から張り出している尾根の先端付近に築かれた連郭式山城で、尾根を横切るかたちで、
各曲輪間に堀切が設けられている。
本丸は、各曲輪の真ん中にあり、尾根の最も高い部分に築かれている。東西約35m前後、
南北約20m前後で東側がやや広くなった不整形な長方形で、西端に小さな城址名が書かれた板が設置されているが、説明板がないのが残念だ。
また、山の中腹や麓にもかなりの規模の腰曲輪が多く設けられていたらしく、随所に削平地が見られる。
曲輪と堀切は非常に良好な形で残っている。本丸西側には土塁も設けられていたらしく、やや高く盛り上がっていた。堀切は、
それほど大規模なものではないが、斜度はなかなかのもので、今でも昇り降りするのは大変だ。
遺構は、実に良好に残っているのだが、あまりにも山が荒れているのが気になった。昨今、荒れる里山が色々取り沙汰されており、
今まで登城した山も、かなり荒れているなと感じた山も多かったが、ここは断トツにヒドイ!!
あちこちに大木が倒れ、道をも塞いでいる。植林された杉の間伐がされずに放りっ放しになって枝が伸び放題で、地面に陽が当らず、
新しい草木も生えず、死の山と化している。
【登城記】
今回は、下調べが不十分なままの登城で、なかなか真下城址が特定できなかった。
譲原にある満福寺(譲原317、TEL0274-52-4937)の近くで、地元の方に、真下城の山と登城口を教えてもらった。まず、
「ましたじょう」でなく「ましもじょう」と呼ばれていることが分かった。そして、「真下城は、山並みの中で、
杉林に挟まれた広葉樹の部分の山頂が真下城址で、登城口は、満福寺から県道462号線を300mほど北東へ行ったあたりにある。」
とのことである。また、「登城口に駐車出来る所はないが、川の方へ降りて行った所にグラウンドがある。」とのことであった。
グラウンドに駐車して、県道に戻り、教えてもらった登城口へと歩いて行くと、「真下城跡→650m」の小さな案内板があった。
そこを入って行くと、社があった。そこからの登城口が分からずうろうろしてしまった。登城道は社の右側(東側)
の砂防ダム下の雑草に覆われた道であった。夏なら、とても入って行けそうにない道だ。
その藪道を通り過ぎると杉林となり、「真下城跡→500m」の案内板があり、大した山じゃないとほっとしたものの、道らしきものがない。
案内板のすぐ左側に虎口のようなものがあり、人が踏んだ気配があるので、そこを登って行った。
しばらく登って行くと、全く道が無くなってしまったので、止むを得ず強引に直登を始めたが、益々分からなくなっていく。
そして崖登りと化していった。かなり危険な所もあったが、兎に角、上に登ればいいんだということで、道なき道を直登していった。そして、
もがきあえぐこと30分ほどで尾根の上に出た。
位置がよく分からないが、どうやら目標よりもかなり西の方へ登ってしまったようだ。ということで、尾根道を右(東)へと歩いて行くと、
堀切に出会い、喜ぶというよりも安堵した。更に進んで行くと、また堀切に出会い、さらに行くと、先の2つよりも規模が大きい堀切があった。
その向こうに「真下城」と書かれた小さな案内板がたっている。そこが本丸だった。本丸には可愛らしい小さな石造の祠が置かれていた。
さて、下山である。きちんとした道があるはずだ。本丸の南下に腰曲輪があり、そこを東へと進むと、堀切があり、さらに行くと、
S字形の土橋があった。そこをさらに空堀や腰曲輪等を見ながら降りて行く。こちらは、確かに道だと分かる。
しかし、それでも山は荒れ放題で、あちこちに倒木が見られ、道を塞いでいる箇所が10箇所ほどもあった。
そして、登る時に間違えた「真下城跡→500m」の所に辿り着いた。
いやあ、山道を間違えると大変だということを、今更ながら思い知らされた。
(2008/01/15登城して)
ギャラリー
真下城跡全景
山並みの中で、杉林に挟まれた写真中央の広葉樹の部分の山頂が真下城址と地元の方に教えられたが、
その右側の山が城跡であった。
㊧登城口案内板、 ㊨県道462号線から登城口へ
登城口は、満福寺から県道462号線を300mほど北東へ行ったあたりにあった。
県道462号線を車で何度も往復したが、この案内板には気が付かなかった。
㊧真下城山麓(登城口傍)に建つ社、 ㊨強烈な藪の道
ここには案内板がなく、登城口が分からず、社の裏へ入って行ったり、ウロウロしてしまった。登城道は、
社の東川にある排水路に沿って砂防ダムの下を通って行く。しかし、あまりの藪で、これは違うと思い、一旦引き返したが、
結局この藪道が正解だった。真冬でこれだから、夏はとても通れないのでは?イバラで手が傷だらけになってしまった。
城跡まで500mの案内板
藪道を通り過ぎると杉林となり、「真下城跡→500m」の案内板があり、大した山じゃないとほっとした。
ところが、ここで大失敗を犯してしまった。ここから、道らしきものがない。案内板のすぐ左側に虎口のようなものがあり、
人が踏んだ気配があるので、そこを登って行った。
道なき道を
しばらく登って行くと、全く道が無くなってしまったので、止むを得ず強引に直登を始めたが、
益々分からなくなっていく。そして崖登りと化していった。かなり危険な所もあったが、兎に角、上に登ればいいんだということで、
道なき道を直登していった。
尾根の上に辿り着く
そして、もがきあえぐこと30分ほどで尾根の上に出たが、位置がよく分からないが、
どうやら目標よりもかなり西の方へ登ってしまったようだ。
最初に見つけた堀切
ということで、尾根道を右(東)へと歩いて行くと、堀切に出会い、喜ぶというよりも安堵した。
次に出会った堀切
更に進んで行くと、また堀切に出会った。この堀切は先程のよりやや規模が大きい。
本丸手前(西)の堀切①
さらに行くと、先の2つよりも規模が大きい堀切があった。その向こうに「真下城」と書かれた小さな案内板
(写真中央奥にあるが、木の葉で隠れている)がたっている。
本丸手前(西)の堀切②
㊧本丸西側の土塁、 ㊨本丸に置かれた小さな祠
本丸は、各曲輪の真ん中にあり、尾根の最も高い部分に築かれている。東西約35m前後、
南北約20m前後で東側がやや広くなった不整形な長方形で、西側には土塁も設けられていたらしく、やや高く盛り上がっていた。また、
小さな石造の祠が置かれていた。
本丸南下の腰曲輪
さて、下山である。「きちんとした道があるはずだ。」ということで、
本丸の南下の腰曲輪を東へ向かうと堀切があり、さらに行くと、S字形の土橋があった。
本丸東側の堀切
土橋と空堀
このS字型の土橋はなかなかかっこいい。両側の空堀も良好な形で残っている。
腰曲輪
そこをさらに空堀や腰曲輪等を見ながら降りて行く。腰曲輪跡は、他にも山の中腹や麓に相当数確認できるが、
中でも、この腰曲輪はかなり広い。
荒れた山
下山したこの道は、「確かに道だ」と分かる。しかし、それでも山は荒れ放題で、あちこちに倒木が見られ、
道を塞いでいる箇所が10箇所ほどもあった。昨今、荒れる里山が色々取り沙汰されており、今まで登城した山も、
かなり荒れているなと感じた山も多かったが、ここは断トツにヒドイ!!植林された杉の間伐がされずに放りっ放しになって枝が伸び放題で、
地面に陽が当らず、新しい草木もあまり生えず、死の山と化している。
「あかぎ(藤岡市中島480、TEL0274-42-2816)の鰻重」
「想定外の山登りになり、カロリーも充分消費しただろう」と自分に言い聞かせて、昼食は鰻重を!
この店の鰻は有名なようである。天然鰻は5月からということで無かったが、充分美味しかった。