上野 高山城(藤岡市)

高山城(天屋城)本丸から南西に延びる尾根を断ち切る堀切

武蔵・上野国境に存する在地領主高山氏の壮大な山城

別名

日野金井城、東日野金井城、日野城
高山城(別名:天屋城)、要害山城、百間築地砦からなる複合城郭

所在地

群馬県藤岡市金井

形状

山城(標高:287.2m)

現状・遺構等

【現状】 山林他
【遺構等】 曲輪、土塁、石垣、堀切、横堀、竪堀、馬出、土橋、説明板

満足度

★★★★★

訪城日

2008/03/09

歴史等

高山城は、上野国高山御厨(藤岡市)の在地領主高山氏の城である。
築城時期等々も含め不祥なことが多いが、付近には関東管領山内上杉氏の平井城もあり、政治的・経済的に重要な地点であった。
高山氏は、平井城主山内上杉氏の支配下にあったが、上杉憲政追放後は、後北条氏、上杉謙信、武田信玄、滝川一益、再び後北条氏の勢力下に置かれ小田原の役で後北条氏と滅亡を共にした。

現況・登城記・感想等

高山城(東日野金井城)は、山頂とその尾根に築かれた天屋城(てんやじょう、高山城とも呼ばれる)と、山腹の要害城、鮎川に突き出して築かれた百閒築地(ひゃっけんついじ)の砦などからなる複合城です。
高山城は、一在地土豪の高山氏の城郭とはとても思えない非常に大規模な山城です。勿論、上野と武蔵の国境の城でもあり、武田氏、後北条氏、越後上杉氏等々の争奪戦があったでしょうし、又その支配下に置かれたこともあったようです。そして、その時に大改修されたり、或いは技術的な関与を受けたりもして、これほど大規模な城郭となったのでしょう。

【高山城(天屋城)】
天屋城は、頂上部にある本丸を中心に、北西・東南・南西へと延びる3筋の尾根を堀切って築かれています。
天屋城頂上部の本丸は不整形な楕円で、それほど広くなく、すぐ下には帯曲輪が2段になっていますが、螺旋状になっているようです。
本丸から南西へ延びる尾根は、さらに西へ、そして北西へと延び、要害山城を囲むように周っています。その一部はゴルフ場造成のために破壊されてはいるものの、大方はよく残されています。その中で、最大の見所は、本丸跡からわずか150~200m程度の間にある5つの堀切でしょう。最初の堀切は岩盤が削られ、今尚はっきりと確認できます。そして4つ目と5つ目は連続しており、二重堀切となっています。また途中、大きな岩が行く手を遮り天然の要害となっています。また、その尾根の下や、本丸の山腹には多くの竪堀も確認できます。
そこから北西へと延びる尾根が、一部、ゴルフ場造成のため破壊されていますが、その先の尾根200mほどが、それを免れて3つの堡塁が残り、藪だらけにはなっていますが、そこにも横堀や堀切等々確認できます。また、その最も北部の堡塁上からは鮎川を挟んで平井金山城、その向こうに一郷山城がよく見えます。
また、今回はS氏のお陰で、普通ならとても気が付かないと思われる、その先の北堡塁の土塁をも見て廻ることができました。

【要害山城】
要害山城にはかつては神社が建っていたらしく、狭い削平地に小さな石の祠が置かれているだけですが、その周囲には、山城としてはかなり規模の大きい横堀がはっきりと確認できます。

【百間築地】
山麓の百間築地には、わずかながら石垣が残り、二重空堀も良好に残っています。すぐ下を流れる鮎川を見下ろすと、絶壁の崖になっており、この地が河岸段丘の要害を利用した城であるのがよく分かります。近くには二重堀とその間にある馬出も、一部が一旦、壊されたようですが、まあ良好に残っています。
また、この辺りは、塁段の地形と堀跡があり、居館や屋敷群があったのではと思われます。

高山城址は、近くにある平井金山城よりも知名度では劣るかもしれませんが、その大規模な城郭群、そしてその遺構等々は非常に見応えがあり、このまま埋もらせてしまうのは惜しいですね。せめて少しでもいいから道を整備してもらい、多くの方が見学できるようにしてもらいたいものです。
(2008/03/09登城して)

ギャラリー

【登城記】
今日は、地元のS氏に案内して戴いての登城でした。朝9時から登り始めて午後1時過ぎまでの4時間強、山中を歩き廻りました。その内、道らしき道は、せいぜい10%程度で、その他は、潅木の中を幾重にも重なった落ち葉に足を滑らせながら、直登・直降・直滑の連続でした。
まだ3月初めで藪はそれほどでもなかったのですが、無数に生えている潅木が行く手を遮り大変でした。とても夏場は入って行けそうにありません。
今までに600城以上の登城をしていますが、最も厳しい登城であったかもしれません。
尤も、その山中に連続する堀切や竪堀等々の素晴らしい遺構の数々を見つけ、疲れも吹っ飛びましたが・・・。
それにしても、S氏のタフなのには恐れ入りました。

【百間築地】
高山城(東日野金井城)へは、日帰り温泉「金井の湯」の東側の「百閒築地」から、「要害城」を経て「高山城(天屋城)」へと登って行きます。
石垣と崩れた石
「金井の湯」の駐車場を拝借(断ってあります)して百間築地へ登ると、その多くが崩れてしまっていますが、石垣が一部残っています。 
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石垣
石垣の残存部が僅かなので、本来の構造は分かりませんが、これだけ残っているだけでも良しとしましょう。
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この堀は、左土塁を囲むように二重堀になっています。 
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鮎川
西側は鮎川へと絶壁になっており、こちら側から攻め込むのは難しいです。
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居館跡
常時の居館跡です。段曲輪になっているのが確認できます。写真手前は堀跡です。
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居館跡の石垣
居館跡の最も東側(馬出側)には石垣が一部残っています。
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馬出
手前の石垣は、一度壊したものを復元したそうですが、本来は牛伏砂岩が使われていましたが、現在は違う石が使われています。奥の石垣は往時のものが残っているそうです。 
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馬出の周りの堀
結構規模の大きなな堀で、かなりの深さがあり、馬出の周りを巡っています。
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【要害山城】
百閒築地を見た後、要害山城へ向かいます。道があるとはいえ、灌木だらけで、その灌木を掻き分けながら向かいます。3月初頭なので藪が大したことありませんでしたが、夏は無理でしょう。
要害山城周囲をめぐる空堀
灌木を掻き分けながら進むと、幅4~5m、深さ2m弱の空堀が確認できます。この空堀は、要害山城の周囲下を取囲んでいるようです。
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要害山城頂上部①
百閒築地から10分ほどで要害山頂上部に到着します。かつては神社が建っていたらしく、狭い削平地に小さな石の祠が置かれています。また、鳥居の石柱が2本倒れており、高山○○と刻まれていたが、よく読めなかった。
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要害山城頂上部②
また、鳥居の石柱が2本倒れており、高山○○と刻まれていたが、よく読めませんでした。
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【高山城(天屋城)】
要害山から高山城(天屋城)へは、道らしき道はありません。今回は要害山城との間の山腹の侍屋敷跡から高山城(天屋城)本丸まで強烈な急坂を30分ほどひたすら登りました。
従って、登城順路でなく、本丸を中心に三方に延びる尾根ごとに紹介したいと思います。
本丸
本丸は不整形な楕円形で、あまり広くはありません。
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本丸からの眺望
本丸からの眺望は潅木に遮られてあまりよくありませんが、3月初頭で葉が落ちていたので、枝の間から
一郷山城 (左の山)と平井金山城 (右の山)が見えました。
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本丸周囲の帯曲輪
本丸下には帯曲輪が2段になっていますが、螺旋状になっているようです。
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【南西尾根方面】
天屋城は本丸を中心に、南西・北西・東南へと延びる3筋の尾根を堀切って築かれています。南西へ延びる尾根は、さらに西へ、そして北西へと延び要害山城を囲むように周っています。その一部はゴルフ場造成のために破壊されてはいるものの、大方はよく残されています。
南西尾根の堀切① (尾根上から撮影)
本丸南西の尾根には、本丸からわずか150~200m程度の間に5つの堀切が設けられています。本丸から南西へ向かい、最初に現れるこの堀切は岩盤が削られ、今尚はっきりと確認できます。 
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堀底から撮影
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南西尾根の堀切②
2つ目のこの堀切もかなり良好に残っています。 
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堀底から撮影
尾根の幅もほぼ同じな上、堀幅や深さを同じほどなので、写真で見ると堀切①と同じように見えますネ。
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南西尾根の堀切③
この3つ目の堀切は、かなり埋っています。
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堀底から撮影
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南西尾根の岩
3つ目の堀切の次には、巨大な岩が遮り、天然の要害となっています。岩の両側は絶壁になっており、岩の向こうへは写真の右手前の岩の右側を行きます。
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巨岩脇を通る
巨岩脇には、勿論、道はありませんが、兎に角、通り抜けるしかありません。
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南西尾根の二重堀切
巨岩脇を通り過ぎると、尾根は南と西へ分かれます。南へ向かって進むと二重堀切が現れます。両堀切ともかなり埋ってしまっているものの、はっきり確認できるのですが、写真にすると全く分からないのが残念です。
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(ゴルフ場により破壊された先の尾根)
一方、巨岩の先から西へ延びる尾根は、さらに北西へ向かって延びているのですが、一部がゴルフ場造成のため破壊されているので、ゴルフ場のフェアウェイを横切って、再び尾根の上へ登って行きます。
ゴルフ場フェアウェイの先の北西へ延びる尾根 
ゴルフ場を横切って再び尾根の上へ登りましたが、こちらは全く発掘がされていないようで、潅木に遮られて大変でした。写真のS氏の手前手前は堀切ですが、堀切は他にも何本か確認することが出来ます。
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最西端の堡塁
灌木だらけの尾根の上を登って行くと、3ヶ所の堡塁があります。元々は、その先にも尾根は続いていたのですが、やはりゴルフ場造成により一部が破壊されてしまっています。写真頂上部は、現在残っている堡塁の中では最西端に位置する堡塁です。 
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最西端の堡塁手前を断ち切る堀切
この尾根にも、かなり埋まってしまってはいますが、多くの堀切が確認できます。当写真は、最西端の堡塁手前を断ち切る堀切です。
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最西端の堡塁からの眺望
ここからの眺望は実に素晴らしく、眼下にはゴルフ場のフェアウェイが、鮎川を挟んですぐ向こうには
平井金山城が、そしてさらに左奥には一郷山城が見え、 平井城を守る諸城の位置がよく分かる。
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尾根南側下の横堀
この横堀は、尾根の外側に設けられた堀で、往時は、もっと北の方から繋がり、そして、ゴルフ場造成時に発掘された畝堀(下写真)へ延びていたのではないでしょうか。この堀も発掘すれば畝堀なのではないでしょうか。
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畝堀(パンフレット:藤岡の中世~藤岡歴史館発行~より)
ゴルフ場造成に伴い、昭和62年度に南堡塁等が発掘された。その結果、曲輪・土杭・土塁・堀切・橋脚跡・竪堀・横堀が発見された。南堡塁南側の横堀は障子堀になっていた。今は埋め戻されているようだ。
高山城障子堀

【北尾根方面】
本丸から北西へ延びる尾根は短く、山腹辺りは幅が広くなり、そこには畝状竪堀が設けられ、その下は居館跡となります。
本丸北側の堀切
規模はそれほど大きくはないものの、本丸側(写真左)はきほぼ垂直な上、かなりの高低差があり、なかなか見応えがあります。
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侍屋敷跡
高山城(天屋城)本丸と要害山城の間(山腹)には侍屋敷跡と考えられる平坦地が設けられています。ここから天屋城本丸への道はなく強烈な坂を直登することになります。
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本丸北下の幾筋もの竪堀
本丸の北西下の方には幾筋もの天然の竪堀が残っています。畝状竪堀というよりも、天然の谷を利用したものが多いようですが、その内2本は明らかに人工的なものです。
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竪堀下には石垣が
竪堀の下には写真のような石垣が残っていましたが、往時はこの堀が大手道だったのではないだろうか?
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竪堀下の土塁
竪堀下には土塁がはっきりと残っており、写真左側が大手道だったのではないかとも思えるのですが果たして?
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【北堡塁】
要害山城西側下の鮎川から続く天然の堀
北堡塁へは、このような天然の要害の道?を通って行きましたが、倒れた杉で頭を打ったりして、真っ黄色のスギ花粉を思いっきり頭にかぶったり大変でした。花粉症の人はとても入っては行けないでしょうね。 
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曲輪跡
途中、平坦地がありましたが、何らかの曲輪跡でしょうね。
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片堀切
また、片堀切のようなものを見かけましたが、自然のものかもしれません。 
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土塁と空堀
100mほど残っていましたが、往時はこの土塁と堀は南の方へと繋がっていたことでしょう。勿論、ゴルフ場造成時に発掘された畝堀と同様だったと思われます。
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コメント

富岡武蔵(2008/03/25)

南堡塁跡の発掘写真には興味を持ちました。藤岡歴史観にはまだパンフがあるでしょうか?

タクジロー(2008/03/26)

パンフはS氏から頂いたものですから、分かりませんが、多分あるのではと思います。
ただ、高山城に関しては、非常に簡単な説明と、他には堀切と曲輪跡の発掘写真が載っているだけです。

(2009/03/16)

先日、わたしもS氏の案内で藤岡市の高山城に登ってまいりました 。数多くの山城を制覇してきましたが、これまで一番きつかった思い出のある信濃の雨厳城を上回る、とんでもない城でした。
歴史的に無名な高山城がなぜあれほどの規模を誇っていたのか不思議です。私よりおそらく20歳くらいは年配のS氏は道なき道をぐんぐん突き進むのに対し、私は最後はもう疲労困憊でぼろぼろでした。

タクジロー(2009/03/17)

確かに、高山城はきつかったですね。
本当にSさんはすごいですよね。でも、Sさんの案内がなかったら、とてもあれだけ廻ることは出来ませんでした。本当に、有難かったです。
それにしても無名な高山城の規模の大きさと遺構は驚きでした。

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