上野 小川城(みなかみ町)

本丸南西部の折りのある空堀

沼田氏が西に備えて築いた上越国境の城

所在地

群馬県利根郡みなかみ町月夜野(小川城跡公園)

形状

崖端城

現状・遺構

現状:小川城跡公園、畑地、宅地他
遺構等:曲輪、土塁、櫓台、空堀、石碑、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2008/06/17

歴史等

室町時代、この地は小川郷として呉胡桃郷と共に村落が開け、奥利根ひいては裏日本を扼す戦略上の拠点として重要なところであった。
小川城は、明応元年(1482)、北上州の雄沼田荘田城主沼田景久が、西の備えとして、この小川郷に築城した。景久は、 ここに二男の次郎景秋を700貫匁(約3,500石)位と言われている知行を与え住まわせ、北毛経営を固めていた。
その後、小川景祐が2代城主となったが、景祐は素行優れぬ城主で、度々の狼籍により、文亀2年(1502)正月、城を追放された。 その後赦免となったが、再びの乱行や沼田本城(荘田城?)への討入り等狼籍の果てに落命した。
景祐敗死後は、弟秀泰が3代城主となった。秀泰は勇将にして岡林斉と名乗り信望を集め沼田七騎の一人としてその名を馳せた。
その後、大永2年(1522)秀泰が死去し、その子景奥の代となると、 小田原の後北条氏の勢力が次第に北関東の奥まった利根の地にもその手を伸ばしてきた。度重なる小競合いの中で、永正17年(1520) 景奥の長子景秀は若くして兵火のため焼死した。更に、大永4年(1524)の戦闘で、城は焼かれ、景奥も戦死した。景奥には嫡子がおらず、 その門葉の北能登守南将監等が城の修復をした。
その頃、上方より北面の武士(京都御所警備)で浪人して、此の地に来た赤松則村の裔・赤松祐正が、 客分として城内にとどまるうち次第にその才を認められ、後に景秀の後家と娶わせ、上杉謙信の裁可を得て名跡となり小川可遊斉と名乗った。
天正8年(1580)3月、小川可遊斉は小田原の北条勢と菩提木にて再度戦った。後北条勢は、可遊斉の戦略にかかり大敗北をなし逃走し、 可遊斉の名声を残す大戦果をあげた。
この報告を聞いた北条氏邦は大いに怒り同年10月数倍の兵力を以って小川城を攻めた。 可遊斉以下将兵は激戦苦闘のすえ城は焼かれ多数の戦死者を出し、城を捨て、見城の棚に逃れた。可遊斉はこの棚にて指揮し、奮戦し、 敵を多いに悩ましたが、700mもの高山のため、水や糧秣等の補給困難となり越後路へ敗走した。
小川城には城代として小川氏門葉の一人北能登守が居城し、真田昌幸の配下として天正20年(1592)頃迄在城した。
その後何年か城代不明の時期を過ぎ、沼田真田氏の5代城主となった幼名兵吉は、寛永15年(1638)より18年間真田伊賀守信澄(信利) となり5代沼田城主を継ぐまで三の丸の陣屋に居住し、 その後は廃城となった。
『現地説明板より』

現況・登城記・感想等

小川城址は、新幹線上毛高原駅の東100mほどの所にあるが、駐車できる所がないので、 私は駅の駐車場をちょっと拝借して大急ぎで廻った。
小川城は、利根川の河岸段丘上(比高約50m))に築かれ、断崖を取り込んだ要害地の本丸と平城部の二の丸・三の丸からなる。
城址は、国道291号線により分断され、平城部分の二の丸は、宅地や畑地となり、多くの遺構が失われているが、本丸は実に良好に残っている。
本丸は東西約60m、南北40mほどの広さで、今は花畑になっている。今回は、春も過ぎ梅雨の季節で、 花の終わりかけのつつじと咲き出した紫陽花、すっかり終った牡丹に埋もれていた。そして南西部櫓台へと続く土塁に沿って「都忘れ」の行列が!
本丸東側には一段低い笹曲輪があり、本丸の南北と笹曲輪の東側は急崖になっている。また、本丸北側には土塁が続き、 南西の張出し部には櫓台がある。
本丸西側(本丸・二の丸間)の折りのある空堀は、非常に深くなかなか見応えがある。
登城前には、こんなに良好に遺構が残っているとは思っていなかったので、得したような気分になった。
(2008/06/17登城して)

ギャラリー

小川城址
城址は、国道291号線により分断されている。道路左側の森が本丸跡、右側が二の丸跡。

本丸
本丸は東西約60m、南北40mほどの広さで、今は花畑になっている。今回は、春も過ぎ梅雨の季節で、 花の終わりかけのつつじと咲き出した紫陽花、すっかり終った牡丹に埋もれていた。本丸の東隅には立派な石碑が立っている。
 

本丸北側の土塁
㊧土塁はせいぜい1mほどの高さであるが、㊨のように、外側は急崖になっている。
 

本丸南西部の土塁
㊧南西部櫓台へと続く土塁に沿って「都忘れ」の行列が!、㊨櫓台の上辺りには、 もう一つの城址碑が立っている。
 

本丸西(本丸・二の丸間)の空堀
道路から本丸へと向かうと、まず最初にこの見事な空堀に出会う。かなりの深さ(4~5mほど)があるが、 登城前にはこれだけの空堀が残っているとは考えだにしなかったので、大いに感激!!

本丸南西部の折りのある空堀
上写真の空堀から続く、この折りのある空堀は見応えがある。奥の土塁は櫓台。

二の丸
二の丸は、宅地や畑地となり多くの遺構が失われている。
㊧奥の森の中にも、かなり、埋ってしまってはいるが、僅かながら堀や土塁が残っているようだった。㊨の案内板には「二の丸濠跡」 と書かれていたが、これが無かったら気がつかないだろうな。

 

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