上野 鷹留城(高崎市)

搦手口の空堀に架かる土橋

本拠箕輪城と別城一郭の編成も信玄により落城

読み方

たかとめじょう

所在地

群馬県高崎市下室田町
【アクセス】
高崎市役所支所(下室田町900番地1電話027-374-5111)から県道29号で滑川を渡って100m程東進し左折する。左手に交番を過ぎて50m程北上した最初の路地(小さな案内板がある)を右折して北上すると、民家に入って行きそうな折れ曲がった細い道になるが、それを道なりに700m程北上すると、右手に山中へ入って行く砂利道がある。その砂利道へ曲がり、300m程東進すると登城口へ出る。車は登城口の100m弱手前にやや幅の広い所があるので、そこに駐車すると良い。

形状

山城(比高:東側の谷底から70m)

現状・遺構等

現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、堀切、竪堀、土橋、石塁?、石碑、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2009/02/08

歴史等

長野業尚(尚業)が明応年間(1492~1500)に下室田に鷹留城を築き、長野郷浜川(高崎市浜川町)から移り、その子憲業が箕輪城を築き本拠を移したといわれる。 箕輪城が築かれて、箕輪・鷹留両城は別城一郭の編成となった。
長野氏は、武田信玄・北条氏康・上杉謙信の三雄が上野国を舞台にして互いに勢力を争った戦国の世に、あくまでも関東管領山内上杉の再興を図って最後まで奮闘した武将である。
特に箕輪城主・長野業政は、弘治3年(1557)以降、武田信玄による西上州侵攻が度々繰り返されたが、西上州の武将をまとめ、鷹留城をはじめとした支城網を駆使して、都度これを撃退した。
しかし、永禄4年(1561)、業政は72歳で病没し、その後を業盛が嗣いだ。
永禄9年(1566)9月、信玄は2万の大軍で侵攻し、長野氏の本拠箕輪城攻略に先立ち、高浜砦を突破して、箕輪城・鷹留城の連絡を分断した。そして、小幡信貞の率いる一隊が鷹留城攻略に向かった。
鷹留城将の長野業通は、業勝・業固(両人共業通の弟)をはじめ数百の手勢で迎撃、一時は烏川南岸に撃退するなど善戦したが、鷹留方も業勝を失った。翌日、業通、業固は山県昌景隊に突入したが、武田方の内藤昌豊、馬場信房隊に囲まれて、長野方の利根木隊の救援で辛うじて囲みを突破、鷹留城に戻ろうとしたが、城内の内応者、男蟹谷直光らによって放たれた火によって城は既に火焔につつまれていた。業通らはやむを得ず吾妻方面へと落ち延びて、鷹留城は落城した。箕輪城は9月29日に落城し、城主の業盛は箕輪城内の御前曲輪の持仏堂で自刃した。
『「群馬の古城・山崎一著(あかぎ出版刊9」、「図説・日本の史跡6中世(同朋社刊)」、「現地説明板」、「箕輪城址説明板」他参照』

現況・登城記・感想等

鷹留城は、南北430m、東西300mの並郭式の中規模山城である。深閑とした山中は中世山城の風情を偲ばせてくれ、また、曲輪・土塁・虎口・堀切・土橋等々の各遺構も良好に残り完存に近いのが嬉しい。
中でも、各曲輪間の大規模な堀切や曲輪の東側に塁段に築かれ、非常に多くの腰曲輪が谷底まで連なり下っていく光景は見応え充分である。
尚、今回の登城で珍しいことがあった。今まで、公園化されていないこの種の山城には何百箇所も登城したが、藪の中に初めて人を見付けたのである。今まで、カモシカや猿や狸等々に出逢うことはあったが、人と出逢ったのは初めてだ。同好の志だと嬉しくもあったが、何だか妙な感じだった?向こうもそう思ってるだろうけどネ!?
(2009/02/08登城して)

ギャラリー

登城口
鷹留城址は非常に分かり辛い上に道も細くて車を引き返すことが出来るか心配になってくる。二股に分かれる砂利道に入った所に車を置いて、一旦歩いて来て、これを見付けた時はホッとした!
登城口には「鷹留城大手口跡」の標柱が倒れており、その傍には歌碑立っている。歌碑は途中にもいっぱい立っていたが、できればもっと案内板の設置が欲しいところだ!左側には小さな石が積まれていたが往時の遺構かどうかは分からない。標柱の右の方にも歌碑が立っていたが、その上には竪堀のようになっていたが果たして・・・。
下城時に、この上の方の藪の中に人を見付けたが、同好の志かと嬉しいような奇妙な感じだったが、向こうはヤッケ等々完全武装だったゾ!

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竪堀
大手道をしばらく歩くと右手上に大きな竪堀が見えてくる。
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本丸北側の堀切
さらに大手道を進むと、途中右上へ上る道がある。そこを上って行くと大規模な堀切へと出る。
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本丸を見上げる
堀切の両側には大きな土塁が見える。右(南)側が本丸(写真)である。
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本丸北側の大土塁
堀切の左(北)側のこの土塁上には祠が祀られてる。この土塁の北側にも堀切(下二枚の写真)があり二重堀切になっている。
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大土塁上から北側の堀切を見下ろす
この堀切も本丸北側の堀切と同じくらい大規模な堀切である。堀切の向こうに見える曲輪が城の最も北に位置する曲輪である。
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大土塁北側の堀切
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土塁
本丸下から北にかけて、東側には長い土塁が続いている。
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本丸
本丸は城の最高所にあり、南北約70m、東西約35mの方形である。
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石碑・説明板・標柱(本丸跡に)
本丸には石碑が二基と標柱・説明板が立っている。真ん中の大きな石碑は「鷹留城死歿者霊碑」、右の小さめの石碑は「鷹留城長野霊神」と刻まれている。
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本丸南の曲輪と堀切
本丸南を見下ろすと、大きな堀切で断ち切られた向こうに細長い曲輪が見える。曲輪上には墓が一基あったが、城主とは関係なさそうだったが、それにしてもすごい場所にあるものだ。
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本丸南側の堀切
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東側の段曲輪
城の東西には腰曲輪が備えられているが、特に東側の腰曲輪は、谷底まで何段もの段曲輪になっている。本丸から谷底までは比高差が何と70mもあるそうで、写真ではその迫力が伝わらないが、実際に見ると、その光景は見事なものだ。
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搦手口
城の北が搦手口となり、ここも堀切で断ち切られ、土橋が架かっている。この土橋がまた見事なもので見応え充分だ。
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搦手
土橋を渡ると、尾根道が何処までも続いていた。今では遊歩道になっているようだった。
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搦手尾根道からの眺望
搦手の尾根道からは、遠く雪景色をした浅間山がよく見える。
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