三匹の鯱がのる復元三階櫓
溝口氏260余年の居城
別名
菖蒲(あやめ)城、舟形城、狐尾曳ノ城、浮舟城
所在地
新潟県新発田市大手町
形状
平城
現状・遺構等
現状:城址公園、自衛隊、宅地等
遺構等:本丸表門、二の丸隅櫓(移築)、復元三階櫓・辰巳櫓、曲輪、土塁、石垣、水堀、石碑、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2009/05/24
歴史等
新発田城は、鎌倉時代に加地庄の地頭職に補任された鎌倉御家人佐々木氏の末裔新発田氏によって築かれた。
新発田氏は、上杉謙信時代には、揚北衆の重鎮として隠然たる勢力を固辞した。
その後、「御館の乱」では、新発田重家は大活躍をしたにもかかわらず、何の恩賞もなかったことに不満を持った。そんな時に、織田信長の勧誘があり、天正9年(1581)重家は信長に内通し、上杉景勝に背いた。重家は信長の支援を受け、破竹の勢いで新潟と沼垂を占領していった。
しかし、翌10年(1582)信長が本能寺で斃れると、戦況は一変し、景勝は攻撃を開始し、天正15年(1587)新発田城は落城し、重家は自刃した。
慶長3年(1598)、会津に移された上杉氏に代って、堀秀治が越後を領し、その与力大名として加賀大聖寺城から溝口秀勝が入ると、全く新しい構想のもとに城が築かれた。
溝口氏は、堀氏改易後には独立した大名となった。
そして、豊臣系大名でありながら、関ヶ原合戦もくぐり抜け、そのまま明治まで新発田城主として交替もなく260余年を過ごした稀な外様大名である。
『「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」、「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」参照』
現況・登城記・感想等
新発田城の大半は、市街地と化し、本丸も多くが陸上自衛隊駐屯地となっていますが、本丸の一部に、大きくて立派な表門と旧二の丸隅櫓が現存し、本丸の南から西側にかけては石垣と水堀が残っています。その切り込みハギの石垣が綺麗です。
新発田城の石垣は、もともと現在残っている部分だけで、他は全て土塁であったそうです。
また、もともと天守はなく、本丸北西隅にあった三階櫓が代行していました。この三階櫓は棟が丁字形になっており、三つの入母屋に三匹の鯱をいただく全国唯一の珍しいものです。
平成10年(1998)、溝口秀勝入封400年事業として、平成16年(2004)6月30日、その三階櫓が復元されましたが、自衛隊の土地の為、交渉中とかで、まだ入館出来ないそうですが、一体、いつになったら入れるのでしょう?
(2009/05/24登城して)
ギャラリー
新発田城縄張図(現地案内板より) ~画面をクリックにて拡大~
本丸表門
桁行9間(約16.4m)、梁間3間(約5.5m)と大きくて立派な櫓門で、二階床間に8箇所の石落しがあります。現在は、資料館になっていて入ることができます。
辰巳櫓(復元)
平成10年(1998)、溝口秀勝入封400年事業として、平成16年(2004)6月30日、堀部安兵衛の運命を決めたと云われる辰巳櫓が復元されました。辰巳櫓は、かつて堀部安兵衛の父が管理責任者で、櫓の焼失の責任をとって浪人となりました。左奥に見えるのは本丸表門です。
本丸三階櫓(復元)
平成10年(1998)、溝口秀勝入封400年事業として、平成16年(2004)6月30日、辰巳櫓とともに三階櫓が復元されました。三階櫓は棟が丁字形になっており、三つの入母屋に三匹の鯱をいただく全国唯一のものです。
旧二の丸隅櫓(左奥に三階櫓)
二の丸北部にあったのを、昭和34年の解体修理後、本丸南西隅の鉄砲櫓跡に移築されました。桁行5間半(約9.9m)、梁間4間半(約8.1m)の入母屋造りの二層二階櫓で、寛文8年(1668)の大火後再建されたものです。
本丸跡(辰巳櫓石垣上から撮影)
辰巳櫓の石垣上から西方面を見ると北西方向に自衛隊駐屯地越しに三階櫓が見えます。自衛隊の土地を通らないと入れないため、折角築かれた三階櫓へは、未だに入館できないそうですヽ(`⌒´)ノ
土橋門跡
本丸を囲む帯曲輪の南西に位置しました。説明板によると、『この土橋と帯曲輪、そして表門及び鉄砲櫓により櫓を併用して枡形門に等しい防御機能を持たせていた。』とありますが、これらが囲むのは水堀であり、枡形門に等しい防御機能云々の意味がよく分かりませんが?
「堀部安兵衛誕生之処」の碑
表門から南東200mほどの所にある大手中ノ門脇櫓跡の土塁上に堀部安兵衛誕生之処の石碑が建っています。この辺りは、築城当初は長屋が置かれていたそうですから、堀部(中山)安兵衛は、この辺りで生まれたのでしょう。