接客に用いられた伊豆木陣屋の書院
松尾小笠原氏一族の伊豆木小笠原氏の陣屋
所在地
長野県飯田市伊豆木、小笠原資料館
【アクセス】
伊豆木陣屋は、書院が現存で残っており、また敷地内に小笠原資料館が設立され、地図やナビなどには「小笠原家書院」「小笠原資料館」などとして掲載されているので、場所はすぐに分かると思います。
但し、書院には駐車場もなく、書院下の道は非常に狭くて小型車は通れませんし、軽自動車も切り返して戻ることは出来ませんので注意して下さい。一本南側(書院下の道から40mほど南)の道を西へ向かい150mほど進むと右手に第5組合集会所の駐車場があるので、そこを拝借すると良いでしょう。
小笠原資料館(小笠原書院):伊豆木3942-1、電話0265-27-4178
形状
陣屋
現状・遺構等
【現状】 小笠原資料館・書院
【遺構等】 書院、石垣、土塁、櫓台、門跡、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2013/10/27
歴史等
伊豆木小笠原家の本家・松尾小笠原家(松尾城主)は嫡流家の深志小笠原家(林城主)の分家で、戦国時代には武田信玄に属した。武田氏滅亡後は、徳川氏の傘下で所領を保ち、天正18年(1590)徳川氏の関東転封に伴い武蔵本庄に移された。
伊豆木小笠原家は、松尾小笠原信嶺の*弟・長巨(ながなお)が慶長5年(1600)に武蔵本庄から旧領伊豆木へ千石で移封されたのがはじまりである。
長巨は翌年、中世に山城(伊豆木城)のあった山の麓に陣屋を築いた。
伊豆木小笠原氏は、以後交代寄合として代々続き明治を迎えた。
『現地パンフレット他参照』
*小笠原長巨の幕府届出の名は「長臣」と「臣」となっているが、本来は「巨」だそうで、この地では昔から「巨」が使用されており、史料館で戴いたパンフレットにも「長巨」となっている。
現況・登城記・感想等
伊豆木陣屋のある台地は、背後にある山の麓を削って台地を造成し築かれたものですが、もともと中世の山城・伊豆木城の山麓居館があった所のようです。
陣屋は、小さいながらも城郭形式であり、大手橋から坂を登ると城門跡と物見櫓跡があり、門内は枡形をなしている。
そして、そこから右手に折れ曲がり石垣の上に入城し台地上に出ると、左手には往時の書院が現存している。一方、その対面(右手前方)には対照的な超近代的な資料館が建てられているw(*゚o゚*)w。
史料館の裏から、中世の山城・伊豆木城跡への登城道があるらしいが、資料館の管理人の方の話では、先日来の台風で、道が荒れていて厳しいかもという。時間的なこともあったので、今回はパスしました(/。ヽ)。
(2013/10/27訪れて)
ギャラリー
伊豆木陣屋絵図(現地説明板より)
大手橋を渡って登城
陣屋下を流れる水路に架かる大手橋を渡って陣屋へ向かいます。水路は、かつての水堀の名残りでしょう。
大手道
陣屋は、小さいながらも城郭形式であり、大手橋から坂を登ると右手には石垣が築かれている。
太鼓門跡
右手に石垣を見て、少し登ると太鼓門跡へ出る。
懸造りの書院を仰ぎ見る
太鼓門脇から左手上を見上げると書院が見えます、書院の左下土台の傾斜部分は懸造りになっているのが分かります。写真右の石垣は物見台跡です。
懸造り
書院の南側床下は清水寺のような懸造りになっているが、山を削って造成した台地の南側は土を盛ってあり、土台がしっかりしていないので、このような懸造りにしてあるのだそうです。
枡形
太鼓門から右へ曲がる、ちょっとした枡形になっています。
陣屋内へ向かう
枡形を左へ曲がり陣屋内へと向かいます。正面上には書院の門(往時は、この場所ではなかったそうですが)、左上には物見台が見えます。
物見台
物見台上には、門の礎石らしき石が一対置かれていますが・・・? 何故、こんな場所にあるのか尋ねるのを忘れてしまいました。
書院
往時は、小型城郭をなしていた居館ですが、明治初年帰農の際に大半の建物が取り壊され、書院のみが残されたという。現書院は、寛永初年(1624)頃、初代長巨が建立したものです。
書院玄関
書院の玄関は唐破風造りで、中央基殿に小笠原家の家紋「三階菱」がついています。
資料館
書院の対面には、対照的な超近代的史料館が建てられていますが、小笠原家由縁の妹島和世氏の設計なのだそうだ。奇異に感じるが、史料館を屏風に見立てればよいのではという建築家の方もいたとか?
背後に見える山が伊豆木城跡で、資料館の裏から登城道があるらしいが、史料館の管理人の方の話では、先日来の台風で、道が荒れていて厳しいかもという。時間的なこともあったので、今回はパスしました(/。ヽ)。、