屋敷跡にたつ古びた標柱
福島正則が安芸から減封され移ってきて構えた館
別名
福島城、福島正則館
所在地
長野県上高井郡高山村高井堀之内(高井寺)
形状
館
現状・遺構等
現状:高井寺他
遺構等:土塁、標柱
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2007/10/29
歴史等
福島正則は豊臣秀吉子飼いの武将として活躍。関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方し、安芸・備後2国で49万8千石を領する大名となった。
元和5年(1619)、広島城の石垣修築が武家諸法度にふれたとして、
信濃川中島のうち2万石、越後魚沼郡2万5千石の計4万5千石に減封となった。
高井野村(高山村堀之内)に屋敷を構えた正則は、寛永元年(1624)7月13日、64歳でこの世を去った。その際、
幕府検死役を待たずに遺体を火葬したとして領地は没収された。
正則は、岩松院を菩提寺と定めて海福寺の寺号をつけた。
『岩松院説明板より』
現況・登城記・感想等
福島正則屋敷跡は103m×70mの方形単郭で、周りを石垣で囲まれていた。しかし、この石垣は安政年間(1854~60)
に高井寺が土塁や空堀を壊して修築を加えたものだそうである。
遺構としては、屋敷跡に建つ高井寺(こうせいじ)の本堂裏手(東北隅)に高さ2m、長さ19mの土塁が残っているそうであるが、見学は不可
(何故だ~???)とのことで諦めた。
屋敷跡の北西隅に結構大きめの標柱が建っているが、字も読めないくらい古びてしまっている(何とかならないのかねえ!)。
また、近くの小布施町にある葛飾北斎の天井画で有名な岩松院に霊廟が建ち、中には五輪塔が納められている。
非常に多くの観光客が北斎の天井画を見るために訪れていたが、正則の霊廟まで廻って来る人は、私達以外には誰一人として居なかった。
生前の末路も徳川にいじめられ可哀想(みじめ)であったが、今も皆に無視されて可哀想!!
(2007/10/29登城して)
ギャラリー
「福島正則屋敷跡」の標柱
屋敷跡の北西隅に結構大きめの標柱が建っているが、字も読めないくらい古びてしまっている
(何とかならないのかねえ!)。石垣は安政年間(1854~60)に高井寺が土塁や空堀を壊して修築を加えたものだそうで、
正則の館とは関係ない。
正則の霊廟がある菩提寺「岩松院」
正則は、岩松院を菩提寺と定めて海福寺の寺号をつけた。
しかし、今では葛飾北斎の天井画が残る寺としての方が有名で、多くの観光客が訪れていた。
㊧正則の霊廟、 ㊨五輪塔
一方、こちらへ廻って来る人は皆無である。本当に可愛そうな(みじめな)正則さん。